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舞踏家大野慶人氏に聞く
深遠な魂の踊りの魅力

 

王衆一=文 孫志誠ら=写真

大野慶人氏

今年7月、第7回「北京南鑼鼓巷演劇祭」が開かれた際に、筆者は蓬蒿(ポンハオ)劇場で大野慶人(よしと)氏が率いる舞踏作品「花と鳥FLOWER AND BIRD BUTOH,A Way of Life」の初の訪中公演を鑑賞した。大多数の中国の観衆にとって、日本独自の「舞踏(以前は暗黒舞踏とも呼ばれた)」を見るのは初めての体験だっただろう。場内は若い観衆で満席だった。大野氏は独特な芸術理念で舞踏の魅力を見せている。伝統的な舞踊美学を覆した独特の舞踏の風格、日本の風格を添えるバックミュージック、魂を貫くような舞台効果。こうした地獄からやって来たと称される舞踏は粗末な小劇場に身を置く観衆を酔いしれさせた。この夜は激しい雷雨で、天井からもれた雨水がステージもぬらしたが、78歳の大野氏は少しも動ぜず、最後まで演じ切った。雷雨の夜に、北京の観衆は舞踏に共鳴していた。公演後、劇場の図書室で大野氏に単独インタビューに応じていただいた。

メキシコのファンから贈られた大野一雄氏の人形を使って踊り、父の世代に敬意を表する慶人氏

舞踏とその時代背景

「13歳の時に、父大野一雄についてドイツの表現主義舞踏を学び始め、20歳になった時に土方巽(ひじかたたつみ)の舞踏公演に出演させていただきました。これが私の初のステージでした。舞踏はさまざまな舞台要素やさまざまなアート形式を総合したものです。私も古典バレエ、フランスのパントマイムや日本の伝統的な能楽を学びましたよ」

『老人と海』を演じる大野一雄、慶人(右)父子=1959

慶人氏の初舞台は1959年の三島由紀夫の小説『禁色』からヒントを得た作品で、土方、大野一雄と慶人氏が創作した「暗黒舞踏」の第一作だった。この荒唐無稽で暴力にあふれたタブーの内容を盛り込んだ作品は、ラディカルな前衛性が注目を集めた。三島、土方、一雄三人は慶人氏がその後歩む芸術の道に決定的な影響を与えた。

土方は舞踏の表現形式を重視し、一方、大野一雄は内面的な感覚と魂の自由を最も重視した。内面の感覚に注意力を精一杯集中すると、当然、それにふさわしい動作と形式がもたらされる。この全く相反するようにみえる二つの考え方が慶人氏に複眼的な啓示を与えた。

土方は秋田県の出だ。東北の飢えと寒さに苛まれた農村で、彼は農民の艱難辛苦を体得した。ふるさとの秋田に戻ってしばらく暮らしていると、筋肉はすべて邪魔なものだと悟り、身体を白くぬることで筋肉をそぎ落とした感覚を表現した。大野一雄は第2次世界大戦中、ニューギニアで9年間も過ごし、ジャングルにおける多くの悲惨な死を見届けた。そこで、彼は舞踏に白化粧を取り入れ、死者を表現した。土方と一雄はたどる道は異なっても、観念上は同じように慶人氏に深い影響を与えた。

『禁色』のステージ(1959) 写真・大辻清司

「三島由紀夫について言えば、私たちの『禁色』をわざわざ見に来てくれましたよ。大変美しいと言って、口を窮めて私の身体をほめてくれました。友達を招待して、一緒に舞踏を見に来てくれました。三島が紹介してくれたおかげで、当時、多くのアーティストがうわさを聞いて、われわれの舞踏を見に来て、拍手喝采してくれました」

慶人氏は続けて次のように語った。「当時、社会的な反米感情の影響で、かつての西洋文化追求、何でも西洋が良いと言っていた反動から、西洋舞踏に盲目的に追随してきたことによってもたらされた問題を反省し始め、日本人は生まれつき体型が小柄なのだから、精一杯演じても、バレエの曲線的な美は表現できないし、身体と魂は自由を獲得できない、と考えるようになりました。こうした背景の下で、土方と父はそれまでの舞踏の動作に背いて、身体をくねらせ、変形させることによって、原始的な自然な表現方法への回帰を果たし、生命の本来の意義を追求し、反省し、魂の深みにひそむ感情を尋ね、庶民・自然に対する畏敬の念を表現するように努めました。これが当時、舞踏が生まれた大きな時代背景でしたね」

現在、舞踏は独特な日本の前衛芸術として世界的に有名だ。日本の暗黒舞踏、ドイツのピナ・バウシュの舞踏劇場、米国のポストモダンダンスは現代舞踏の3大新流派とされている。

今回、慶人氏と共に訪中した人々の中に文化評論家の四方田犬彦氏がいる。彼は舞踏と日本の伝統的な演劇舞踏との関係について独自の角度で分析し、異なる時代の芸術形式とその奉仕した社会階層は対応していると考えている。氏の指摘によれば、古代の能楽は武士階層に奉仕し、雅楽の舞踏は貴族階級に奉仕し、歌舞伎は後の都市商人の勃興と密接に関連している。土方の舞踏は熟知した農民階層と関係が深く、慶人氏の時代になると、さらに純粋に人間の自我意識を表現するようになってきた。この指摘は、日本の芸術と社会発展の関連性を理解する上で大変勉強になるものだ。

慶人氏(右)にインタビューする筆者(左)と同席した四方田氏(中央)

慶人氏の舞踏観の発展

実際、慶人氏が若い時に父について学んだドイツ表現主義の踊りは彼の舞踏観に決定的な影響を与えた。20世紀初頭の第1次世界大戦以来、戦争で傷ついたドイツ表現主義芸術家たちは束縛から抜け出した「自由なダンス」を唱え始め、踊り手は内在的な情感、衝動を通じて、身体本来のリズムに合わせて踊るべきだと主張した。こうしたバレエ美学から離れた新たな踊りの理念の下で、表現主義の踊りは、かがむ、身体を丸める、這う、床に寝るなどの低空間動作をしばしば取り入れている。こうした「優雅ではない動作」を踊りに取り入れる概念が日本に伝わり、舞踏の誕生に直接的な影響を与えた。

舞踏は土方、大野一雄らによって始められ、慶人氏の代になって新たに発展した。このことは彼らの個人的な経歴の違いと大いに関係ある。

「土方は『白桃工坊』で若い人たちと一緒に舞踏を創作しました。土方流の舞踏を学んだ子どもたちは彼について二十数年踊った後、もう踊ることはありませんでした。彼らは、二十数年踊った後では、自分たちがどのように踊っても、やはり土方巽の踊りなのではないかと、自分に問いかけたのです。土方は足の運び方を究めていました。彼の足運びは秋田県の農民の田植えの特徴をつかんでいました。しかし、彼は私に、お前は都会で育ったのだから、この足運びは使えないだろう、と言いました。私は聞いて分かりましたよ。それで彼にそれじゃ私はコンクリートの路面を歩く感覚を探します、と言いました。それで私の舞踏には都会的なものがあり、私自身の風格になりました」

慶人氏は24歳になった年に土方を離れ、1969年、東京での個人舞踏公演を最後に、12年の長きにわたって、活動を停止した。

60年代末から70年代初めまで、日本では反安保闘争、労働運動、学園紛争などが頻発し、緊張感に満ちた時代だった。この時期は日本の芸術分野も前衛精神が最高潮に達していた。興味深い現象は、この時期に東北の貧困地域から、何人もの超人的な才能に恵まれた芸術家が出現したことだ。青森県から実験劇場「天井桟敷」を主宰した劇作家・寺山修司が現れ、秋田県からは暗黒舞踏の創始者・土方が出現し、ドキュメンタリー映画監督の小川伸介は山形県に理想的な農村共同体試験田を見つけて移住した。土方は小川が演出したドキュメンタリー映画『1000年刻みの日時計 牧野村物語』に出演し、カメラの前で農民一揆のリーダーを演じ、歴史上の事件を再現した。こうした喧しい時期で慶人氏は沈黙を守った。彼は故郷の横浜に帰り、そこでドラッグストアを開き、あっという間に12年過ぎた。この間に彼は土方が出演した映画を見た。長い時間を掛けて、店を経営する傍ら、横浜という伝奇的な街で人生体験を積み重ね、人生に対する感性に磨きを掛けた。

「私の店があるビルの5階は高級なホテルで、そこにメリーという名の年長の娼婦がいました。客はみんな外国人でした」

横浜ローザを演じた五大路子

筆者はある女性とある街の歴史を記録したドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」を思い出した。メリーは戦後間もなく、田舎から横浜にやって来た女性。彼女はヤンキー文化と言われた米国文化にあこがれ、白化粧で米兵相手の商売をしていた。多くの横浜市民からメリーに関する思い出を取材しながら、映画は横浜の戦後史を生き生きとして描き出してきた。このドキュメンタリーで慶人氏は中村高寛監督の取材を受け、メリーに関する印象を語っている。メリーは白の厚化粧で接客していたが、慶人氏の白の舞台化粧と同工異曲だ。映画の中で慶人氏は白化粧のメリーについて語っていた。この映画のエンディングに女優・五大路子がメリーを原型とするローザに扮して登場し、白の厚化粧で街を歩く。その味わいと舞踏は軌を一にしている。今回の北京公演で、慶人氏はオフェーリアを演じたが、厚い白化粧はメリーの面影を連想させた。

オフェーリアを演じる慶人氏
 

横浜は開港も古く、戦後米軍に占領された街として、多くの歴史事件や人間劇を経験してきた。横浜暮らしの経験は慶人氏の人生を豊かにし、土方や父の世代とは違う感性を育んだ。

「2012年のロンドン五輪の時、ある大劇場に招かれました。出発前に偶然、私の外祖父が英国人だったことを知り、びっくりしました。私はずっとガンジーに似ていると言われてきましたし、私自身も他の人とは違うと感じていましたので、そういうことかと、腑に落ちましたよ。英国行きは外祖父の故郷を訪ねる旅になりました」

東西文化に通じた人生を重ねて、慶人氏は1985年、父について、東京で舞踏『死海』に一緒に出演し、カムバックを宣言した。一旦再開すると止まらなくなり、1986年以降、父の全作品を演じ、ニューヨーク、ロンドン、マドリード、パリ、ローマ、サンパウロなどで公演し、舞踏の国際的な普及に大きな役割を果した。

1985年初演の『死海』  (写真・池上直哉)

一種の生き方としての舞踏

「舞踏は全身で感情を表現します。自分が一輪の花になると想像すると、花の感覚がわき出てきます。土方が指導してくれた当時は言葉でイメージを引き出してくれました。例えば、4000年の悠久の歴史の感覚ですよ。4000年と言えば中国の歴史ではありませんか?日本の歴史は2000年程度です。10㌢ずつイメージしながら移動しますし、自分が100年に相当する1歩をどのように歩むかイメージしていますよ」

慶人氏は独特のスタイルで舞踏を語る。今回、中国でも若いダンサーに囲まれて、この独特のスタイルで指導した。

「私は皆さんに、心身合一のことと自分がどこにいるかイメージすることに専念しなければならない、と話しました。歩くことこそが本来の姿であり、生活とは歩くことです。自己の想念は、環境の中の他人と音楽の相互作用によって構成される一つの『場』なのです。中国の大地を歩き、自分の足元の感覚を感じ取り、その世界から来るまなざしを受け止めることですよ、と話しました。私がこう話すと皆さん興奮し、効果が上がりましたよ」

中国の学生に舞踏の感性を指導する慶人氏

ステージで、慶人氏は舞踏の真髄を感じ取っている。実際に、舞踏は彼にとって一種の生き方なのだ。真っ白に化粧した顔は死に向かう生の信念を明白に表している。土方巽の68歳の死は慶人氏に神に対する畏敬を感じさせ、父大野一雄の104歳の死は、老後の人生の意義について深く考えさせた。多数の死者をもたらした戦争に対して、慶人氏は心の底から憎悪している。

「戦争は人間不信が源で、戦争とは、結局、数え尽せない死を積み重ねた巨大な墳墓ですよ。舞踏は正反対に、われわれに『信じること』を求め、『信じること』がわれわれを導いている時、手に銃を持っている輩は逆にためらいます。さらに進めて、われわれの『信じること』は、戦争で問題を解決しようと考える人々に、戦争の愚かさを考えさせ、疑問を持たせることができるでしょう。なぜ戦争をしなければならないのか?われわれの舞踏は『信じること』を通じて、戦争のない共通の世界を創造しようとしています」

生活を信じる。舞踏を一種の生き方にしている。慶人氏は生活の中でもこの信念を実践した。彼は晩年の父をずっと介護し、見送った。高齢社会の到来は彼に生命の意味を会得させ、彼の舞踏に対する認識をさらに深めさせた。

東日本大震災の犠牲者に哀悼の意を表した公演

「東日本大震災では津波などで多くの人々が亡くなり、草も木も枯れてしまいました。私はこうした失われた命と傷ついた大自然に対する深い思いを舞踏で表現しました」

今回の北京公演での最後の一幕は慶人氏が自らの感性で表現した悲しみと憐憫だった。

劇場で観衆に語りかける慶人氏

中国の悠久と広大さを肌身で感じた慶人氏は今回の初訪中から新たな刺激を得られたと語っていた。既に78歳だが、今後もステージで舞踏を演じていくと大野氏は言う。舞踏がすでに人生に溶け込んだ大野慶人氏はこれからも舞台で活躍し続けるよう見守って生きたい。

 暗黒舞踏
舞踏家・土方巽が中心になって作り上げた前衛舞踏スタイルで、1950年代末に芽を出し、60年代初頭に形成され、60年代に大いに活躍した。伝統的な日本舞踏に対する反逆性から脚光を浴びたが、そのために正統舞踊界からは異端視された。一般的に、伝統と前衛をミックスした日本独特の舞踏形式とされている。現在では単に「舞踏」と称されている。
 大野慶人
日本の舞踏家。1938年7月15日、舞踏家・大野一雄の子として生まれる。1959年、土方巽の『禁色』に出演、「暗黒舞踏」の公演に出演した。1986年から大野一雄の全作品に出演し、舞踏の国際的な普及に努める。今でも依然として、ステージで活躍し、舞踏界の重鎮になる。欧米の外、韓国とも多くの交流がある。今年7月、初めて訪中し、北京、天津で近年の新作を披露した。

 

人民中国インターネット版 2016年9月20日

 

 

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