貧困地教育支援 次世代へ託す日中友好
梶原美歌
一九九九年、私はユネスコ北京事務所の傘下にあるボランティアチームに入隊、貧困地失学児童支援事業に携わることになった。当時、共産党青年団中央は「中国青少年発展基金会」を組織、民間に対して「希望工程」という名で支援を呼掛けていた。国際的視野で広く一般企業や機構、学校等から寄付金を募るものだ。私の仕事は日本で支援を希望する人達と中国で援助を待つ人達をこの希望工程で繋ぎ、具体的成果を出すまでのサポートをすることだった。そして出会ったのが、日本福岡県田川市による河北省豊寧教育支援活動だった。
豊寧は河北省北部に位置し、車で一時間も走れば内モンゴル。大草原が広がる自然美しい所だが、全国でも有数の降雨量が少ない地域。対する田川市は福岡市内から南へ約七十キロメートル、山に囲まれた田舎で、その昔炭鉱で栄えた町だ。
私が活動に参加して最初に見えたのは、田舎と貧困は別だという現実。雨が降らないと確実に経済的に立ち遅れる。生態系が脆弱になり折角の雨も表土流出を生み、農業近代化を畜産業に頼るも既に羊やヤギの過放牧で手遅れ。そんな窮迫した土地豊寧に連れて来られたのが、田川市の元校長だった。その時既に六十歳を越えていた元校長は、粗末な校舎、素朴な子供達を見て、自分の貧しかった幼少時と重ねずにはいられなかったという。そして自分が助けられたように、今こそ自分が豊寧の子供達を助けよう、と支援を決意。地元に戻るや直ぐにもう一人の元校長に相談。すると話を聞いた卒業生らが支援協力を志願。更にその家族も参加。年を重ねるごとに活動は盛り上がり、気づけば豊寧教育支援活動は田川の町全体の活動になっていた。田川の人達は約束通り毎年夏になると豊寧を訪れた。音楽や美術を通じた交流授業、日本の竹とんぼや風車を紹介する遊び、食堂を借りて日本のカレーを御馳走する企画もやった。田川の小学生数名を豊寧まで連れて行き、子供同士の交流活動も果たした。毎年会うことで、田川の人は子友達や村人の顔を覚え親しみが増し、迎える豊寧の人も、安心感と期待感を抱き受け容れてくれるようになった。支援内容は、学校建設、井戸掘り、実のなる木校内農園建設、図書・寄宿用ベット・パソコンの寄贈・・・。学校が欲しがる物は無理してでも寄付し続けた。学費援助対象児童は二百名を超え、事実上、失学児童はいなくなった。こうした日本人の熱い思いを、私は唯一通訳できる人間として非常に頼りにされた。私自身も田川の人達と共に豊寧を訪ねることが楽しみになっていた。おそらくこの活動に携わった誰もが、教育支援だけが目的ではなくなっていたと思う。
しかしある年、支援児童の父兄から「自分の子は失学児童に選ばれたが一度も金を貰っていない。お前らは嘘吐きだ。」と攻寄られる事件が起こった。実は親に学費を現金で渡すと他で使ってしまう心配があり、学校で直接管理してもらう方法を採っていたのだ。事前に説明していたはずだが、理解してもらえていなかったのだ。貧困が生む誤解と恨み。教育環境は改善出来ても、背景にある貧困は解決出来たわけではなかったのだ。考えさせられた一件だった。一方田川でも、毎年寄せられる支援依頼、高額な旅行代金、寄付金集めにも疲れと不平がでていた。そして私自身も、学校と生徒の数が増え、特に気を遣う支援金の管理は苦痛になっていた。
田川の豊寧教育支援活動も十年を迎え、集大成として豊寧の子供達を日本に招待することが決定した。しかしこの年二〇一一年三月、東日本大震災が起こってしまう。子供の人選も終わり、いよいよ日本へ旅立つ矢先のことだった。原子力発電所爆発事故は隣国中国に想像以上の恐怖で、豊寧の人達も「日本みたいな危ない国に可愛い子を行かせるわけにはいかない。」と言い出し、(田川は東北から千キロ以上離れているのに!)結局計画は中止になった。更に残念なことに、去年、田川の代表者であった元校長の一人が死去された。
中国政府の貧困撲滅戦略は終結し、時代は緑化活動へシフトしている。北京から豊寧まで高速道路が開通し、草原は一大観光地として開発され新たな収入が得られるようになった。支援した子供達は無事に学校を卒業し、自分の夢を追うことが適う子も出てきた。いよいよ本当に貧困から脱したということだろう。しかし子供達よ、忘れないで欲しい。田川の支援成果は今も豊寧の至る所にあることを。見ず知らずの君達の未来を心配し、どれだけ大勢の大人が苦労してきたのかを。それは日中の壁を越え、関わった人全員に喜びと信頼を生んだということを。君達は日中友好の中で育った未来人だ。新しい明るい日中関係を築いてくれると信じている。
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