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五記歌舞伎

 

王衆一=文

 

  3月18日から20日にかけて、松竹大歌舞伎の北京公演が開催されていた。

人中君が以下に数字をもって、これがどれほど貴重で盛大な催しなのかを説明したい。

 

ジャンルの異なる選りすぐりの3演目

新中国成立後、5度目となる来中公演

中国国民との10年ぶりの再会

中日国交正常化45周年記念イベントの一つ

松竹株式会社社長自らが100人の公演団を率いて北京入り

 

今回、人中君は皆さんに弊社の王衆一総編集長が今回の公演のために書いた『五記歌舞伎』を紹介したい。

 

 

今昔歌舞伎物語

歌舞伎はおよそ410年余りの歴史を持つ。これは中国の京劇よりも歴史が長い。その起源は江戸時代の出雲阿国という巫女が生み出した「かぶき踊り」にあり、その踊りは女性の享楽にふける様子を表現していた。「歌舞伎」という言葉の語源は「かぶく」という動詞であり、それが名詞化したものである。本来の意味の「傾く」という言葉には、当時の奇抜な服装や変わった風体や行動で人々の注目を集める人々という意味も含まれていた。初期の歌舞伎踊りは「前衛的」過ぎた当時の新しい風俗舞踊だった。

 
  「阿国歌舞伎」の流行は多くの模倣者を生み出した。一部の遊女たちが踊りを披露しながら客を取って商売したため、幕府は1629年に「遊女歌舞伎」を禁止した。劇の形態について言うと、この時期の歌舞伎は最も早く独立した経営力のある演劇団体をつくり上げ、最古の芝居小屋も造り演劇の商業化を成功させた。その後、「若衆歌舞伎」や「野郎歌舞伎」が現れ、ついに役者が男性へと替わったが「売春要素」が依然として付随していた。剃髪令が施行されてから歌舞伎は演劇の正道へ入り、その後没落した「能と狂言」の役者も共演者として参入した。

若衆歌舞伎

 

 元禄時代(1688-1703)に新興商人が、もともと特権を持っていた商人に取って代わり、大阪や京都に進出して歌舞伎の黄金時代をつくり上げた。この時期には専門の脚本家も現れ、「狂言作者」として独立し、浄瑠璃を創作して名を馳せた近松門左衛門(1653-1724)は多くの歌舞伎の古典といわれる作品を書き上げた。
 
 
近松門左衛門と歌舞伎の第一次黄金時代
 

享保年間(1716-35)になると歌舞伎は幕府から幾度も弾圧を受け、その社会的地位は低下したが紆余曲折の中でも発展を遂げ、人形浄瑠璃から多くの点を学んで、演出がますます様式化され、視覚化された。

元文年間(1736-40)に発展の最盛期を迎えた三味線は天明年間(1781-88)に歌舞伎に取り入れられ、舞踊劇の発展を促した。その後、明治維新から江戸末期にかけて歌舞伎の脚本からは本来あった新奇性や結末の意外性が徐々に失われ、退廃した世相から真実を追い求めるような話になった。この時期の代表的な作品に河竹黙阿弥らのものがある。

明治時代(1868-1912)の一連の社会改革も歌舞伎に波及し、多くの新興演劇が盛んに興り、大物歌舞伎役者までもが「新劇運動」の先頭に加わり、歌舞伎の独り勝ちの時代が終わってしまった。大正時代(1912-26)になると新興演劇の「新派」「新劇」「大衆演劇」や映画などの新しい娯楽と対抗せざるを得なかった。

 

映画VS歌舞伎

20世紀初頭になっても歌舞伎の「名人」たちの地位はその他の娯楽と比較すると極めて高く、逆に新興の映画の地位は今考えるととても信じられないほど低かった。

恵まれた環境にあった歌舞伎役者は映画を明らかに見下しており、その態度は合作する際に躊躇という形で表れた。彼らは、演技をするのは檜舞台の上でなければいけないと考えていたが、映画は直接地面の上で演技するため、映画のことを「土戏」と呼んで蔑んでいた。

現存する最古の日本映画は1899年に撮影された『紅葉狩』である。このフィルムは歌舞伎役者から十分な理解が得られない状況でようやく完成にこぎつけたものだ。この映画には以下のようなシーンがある。團十郎が投げた扇を受け損なって落としてしまったが撮り直しをしなかったのである。これは今日では考えられないことだ。さらに信じられないことは、「名人」たちの眼中になかったこの「土戏」が歌舞伎から観客を奪い、歌舞伎を苦境に追い込んだことである。

 

柴田常吉の『紅葉狩』(1899)

 

1960、70年代になると伝統文化の復興と映画産業の没落に伴い、歌舞伎が再び隆盛を迎えた。65年に歌舞伎は重要無形文化財に指定されて保護された。映画の黄金時代に雨後の筍のごとく造られた大型の映画館は数が過剰になり歌舞伎の劇場に改装された。しかし歌舞伎と映画はこれによって切れるほど単純な関係ではなく、事情が複雑に入り組んでおり、多くの歌舞伎役者が銀幕デビューを果たした。20世紀末には当時最も評価が高かった歌舞伎の名優坂東玉三郎ですら数本の映画に出演していた。

 

シネマ歌舞伎『阿古屋』坂東玉三郎

 

21世紀に入り、新劇の監督や脚本家が歌舞伎の演出に目を付け、自分の作品に歌舞伎の演技を取り入れようと試みた。歌舞伎生誕400周年となる2005年にはユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載された。

 

京劇VS歌舞伎

中国の京劇は歌舞伎と同様に大衆文化が高度に様式化された時代に生まれたが、その誕生は歌舞伎より遅い。200年以上前に徽劇班が北京を訪れたことが京劇の嚆矢とされている。歌舞伎は江戸時代の1603年に阿国という巫女が京都に来て「風流踊り」を演じ、民衆に大いに受け入れられたため広まったというのが定説である。

高官や貴人の集まりで重用されたことで発展した京劇とは異なり、歌舞伎は商業的な色合いがさらに濃く、手工業者や商人が主体となる純粋な市民文化の中で大きく発展を遂げた。そのため、歌舞伎の演目内容は京劇と大きく異なっているのだ。

京劇の神髄は歌、せりふ、所作、立ち回りいずれにも精通していることだが、歌舞伎は役者自身が歌わず、伴奏と歌い手が演奏をして劇の人物の心の動きを表現する。中国の人形劇の演出に酷似したこの特徴には歌舞伎以前の伝統が関係している。簡単に言うと、日本でさらに古い舞楽、能楽、人形浄瑠璃はみな仮面劇の特徴を持つ舞台芸術だった。これらの芸術は大衆ではなく、特権階級に好まれており、そのうちの能楽はさまざまな式典や儀式で披露される出し物にまでなった。そして前述したとおり、歌舞伎とは一般大衆の文化的産物である。大衆の欲望や感情を直接表現するため、伝統的な演劇の特徴から相当逸脱した。もちろん、伝統的な演劇が歌舞伎に与えた影響も少なくなく、歌、舞、音楽、せりふが同じ舞台上で並列して進むという特徴が見られる。

この他に、高度に様式化されていることも歌舞伎が持つ独特の特徴である。京劇もすでに高度に様式化されているが演技の際にはある程度の柔軟性が許されている。しかし歌舞伎の様式化の度合いはさらに強く、舞台での歩き方はみな決まっており、その歩みはとてもゆっくりしていて、あらゆる所作がきちんとしている。楽器と役者の動きも正確に調子を合わせる。

京劇には歌舞伎の「女形」にあたる「男旦」がおり、この点について両者は酷似している。もう一つ酷似している点は、近代劇は状況と性格、心理の描写を割合強調するが、歌舞伎と京劇は劇の内容に従って登場人物の性格を描写しないというところである。歌舞伎の演劇の特徴とは、若干の典型的な性格を備えた人物によって演劇をつくることができるという点である。

これら二つの東方の演劇の至宝が類似性を持っていたことにより、1920年代にすでに歌舞伎と京劇は同じ舞台で共演したことがある。26年に北京の劇場で梅蘭芳の『金山寺』がトリを飾った公演の、一つ前の出し物が歌舞伎の『一條大蔵譚』だった。この時がまさに両国の国劇の黄金時代だった。

 

50年代に撮影された梅蘭芳と歌舞伎役者の写真

 

友好の使者としての歌舞伎

新中国が成立してから55年、79年、2004年、07年の計4回にわたって歌舞伎の中国公演が行われた。

中でも1955年は規模が大きな公演だった。名優市川猿之助が『勧進帳』や『京鹿子娘二人道成寺』など3演目を引っ提げて北京公演に来たので、北京にいる多くの文化人が市川猿之助の玄妙な演技を見に行った。評論家の欧陽予倩もこの公演について文章を書いている。

 

55年の北京公演時に行った市川猿之助と梅蘭芳の対談を掲載した『人民中国』の記事

 

この交流は両国関係がまだ正常化していない状況で行われたものだったため、政治的な意義が大きかった。この公演に関して次ようなエピソードがある。当時観客の多くは動員されて来ており、途中退場を防ぐために公演が始まると劇場のドアに鍵がかけられたそうだ。これは当時の中国の観客が歌舞伎のテンポにまだ慣れていなかったことを表している。

60年2月25日、「前進座」代表の河原崎長十郎(写真中央)らと交流する梅蘭芳

 

79年は中華人民共和国と日本国との間の平和友好条約(中日和平友好条約)締結の翌年であり、両国は蜜月の友好関係の雰囲気にあった。その年に中日両国で文化交流協定が結ばれ、歌舞伎の2回目の北京公演が開催された。

2004年5月の第2回北京国際演劇シーズン中に近松座歌舞伎が北京にやって来た。これは25年ぶりの3回目となる来中公演である。近松座は1981年11月に「人間国宝」の称号を持つ中村鴈治郎が旗揚げした近松門左衛門と坂田藤十郎を原点とする一座である。前述したように、近松門左衛門とは元禄時代の歌舞伎に繁栄をもたらした脚本家であり、日本ではシェイクスピアと比肩する偉大な人物だ。坂田藤十郎とは元禄時代に上方で活躍した名優で、演技力と所作(柔和で優雅な演技が同時期に江戸で流行った荒事と対比された)で歴史に名を遺した。特に近松門左衛門の作品は非常に多く、上方歌舞伎では屈指の数を誇る。

その時の商業公演は完全に市場メカニズムの中で行われた。中村翫雀主演の『太刀盗人』と中村鴈治郎(中村翫雀の父親で、2005年に三代目坂田藤十郎逝去から数えて231年ぶりに四代目坂田藤十郎を襲名した)主演の『藤娘』の2演目が北京保利劇院で3日間行われた。ちなみに筆者はこの2演目の中国語の字幕翻訳を頼まれた。

 

04年の北京公演で梅葆玖(梅蘭芳の九男で京劇俳優)にインタビューした際の本誌記事。写真は『藤娘』と『太刀盗人』

 

岡村柿紅が作った『太刀盗人』は日本国内ではあまり上演されていないが、せりふが多い狂言を題材としており、見栄えがあって盛り上がれる喜劇なので海外公演に適していた。当時の魯迅博物館館長の孫郁は『太刀盗人』を見て、以下のような感想を書いている。「この劇は非常に生き生きとした典型的な俗世間の物語である。劇の結末には含蓄があり、正義が悪を倒すというものではなく、逆に悪が正義をおちょくっている。世間の醜さは善と美を覆す。善良な民の無力感と役人の無能がありありと目に浮かぶようだ。日本の芸能作家が描いた身の回りの出来事は、公の記述とはかけ離れ、一般庶民の意識をよく描き、悪を代弁している」

『藤娘』は舞踊を題材にした歌舞伎で、旅の娘(藤の精)が、自分が恋した男(松)と絡むさまを表しており、非常に美しい象徴的な方法で男女の情事を描いている。70歳近い中村鴈治郎の舞台上の演技は大変あでやかで、藤の精が藤の花枝をかたげ、笠をかぶっている様子はとても美しい。舞踊も女性らしさに溢れ、品があって優雅だ。また、歌と音楽も魅力的である。

07年9月に中日国交正常化35周年を記念して、中村翫雀とその父親の四代目坂田藤十郎が近松座の一団を率いて二つの名作と『傾城反魂香』の公演をしに再び中国を訪れ、北京、杭州、上海、広州を巡業した。これが四度目となる歌舞伎の来中公演である。

写真はそれぞれ『英執着獅子』(上)と『傾城反魂香』(下)

 

 

絢爛豪華な歌舞伎との再会

さらに10年の時を経て、松竹株式会社の大谷信義社長自らが100人近い公演団を率い、名作を携えて北京公演へやって来た。これが新中国成立以降五度目となる歌舞伎の来中公演である。

東京での発表会で一堂に会する程永華駐日中国大使と松竹歌舞伎訪中団

 

松竹は世間によく知られているような映画だけの会社ではない。もともとは歌舞伎や演劇の会社である。1895年に大谷竹次郎が京都で劇場経営をして始まった松竹の歴史は優に百年を超える。松竹の名称は創設者である白井松次郎と大谷竹次郎の名前にちなんで付けられた。松竹がその後映画で有名になったのは1920年代のハリウッドの発達した特撮技術登場後に始まったスターシステムの影響がある。この影響を受けた松竹の「ニューフェイス」が続々と銀幕スターとなったことで、松竹映画の繁栄を築いたのである。中国でもよく知られる山田洋次監督の不朽の名作である『男はつらいよ』『遙かなる山の呼び声』『幸福の黄色いハンカチ』も松竹製作である。

歌舞伎に話を戻すと、今回の公演は中村鴈治郎(2015年に中村翫雀が襲名)、中村芝翫、片岡孝太郎ら豪華出演陣がそろっている。中国の観客に歌舞伎の魅力を存分に伝えるべく、主催側は『義経千本桜』『藤娘』『恋飛脚大和往来-封印切』というジャンルの異なる3演目を選りすぐり、歌舞伎の様式美や演劇性、そして「女形」舞踊の優雅さを見せるつもりであった。

 

 『義経千本桜』『藤娘』『恋飛脚大和往来-封印切』の写真

(注:上の写真と下の写真の人物の順番が一致していない) 

彼ら役者の普段の様子はこうである

今回のチケットは予想以上の売り上げとなり、たった3日間で5つの公演のチケットが全て売り切れた。観客を劇場に閉じ込めた1955年の時とは違い、国交が正常化してから45年が経過した中国の観客の歌舞伎に対する態度と理解がこれほど大きく変化したのであった。

『藤娘』は2004年に北京で上演されている。これは舞踊を題材にした女形の劇で、近江(琵琶湖一帯)の狩野派の画家が描いた大津絵から娘が出て来て踊るという話だ。歌舞伎では、絵から出てきたのは藤の精が化けた娘になっている。藤が松に絡みつく様子は男女の愛を美しく象徴している。優雅な舞踊と感動的な歌詞には女性のなまめかしさ、ほろ酔いの姿のあでやかさ、そして一途な愛を貫くさまが表されている。最後に藤娘は松と名残惜し気に別れて、また絵の中へ戻る。近江一帯を題材としており、作者はその非凡な独創性によって長唄の歌詞の中に近江八景(比良暮雪、矢橋帰帆、石山秋月、瀬田夕照、三井晩鐘、堅田落雁、粟津晴嵐、唐崎夜雨)を巧妙に組み込んだ。

歌詞を翻訳していた当時、その中の故事やイメージを中国語訳に反映させるための作業に翻訳者としてとても悩まされたことを覚えている。今回は北京でまたあの華麗な女形の舞踊を見られるということで、2004年の『藤娘』で上演された長唄と筆者が翻訳した中国語歌詞をお見せして、皆さんにあでやかな舞踊の様子を想像していただくとともに、優雅な歌詞の魅力を味わってもらいたい。

(大まかな歌詞)

若紫に十返りの 花を現す松の藤浪

松枝百年一开花,如浪紫藤映花现。

 

人目せき 笠塗笠しやんと 振りかげたる一枝は

头戴漆笠令人羡,肩扛一枝藤花串。

 

紫深き水道の水に 染めてうれしき由縁の色の

神田水道水色紫,染出藤花惹人怜。

 

いとしとかいて 藤の花

しよんがいな 袖もほらほら しどけなく

藤娘楚楚惹人爱,唉唉呀,真无奈,

衣襟恰如心绪乱。

 

男心の憎いのは そのと女子に神かけて

あわづと三井のかねごとも

可恨男人心多变。曾盟粟津云雾间,

三井晚钟可证验。

 

かたい誓いの石山に 身は空蝉のから崎や

待つ夜をよそに 比良の雪

石山秋月立誓言,唐崎夜雨脱壳蝉。

比良雪夜郎不还。

 

溶けて逢瀬の あた妬ましい

ようもの瀬田に わしや乗せられて

念其前情心又软,濑田夕照弃前嫌。

再次随他上旧船。

 

踏みも堅田のかただより 心屋橋の

かこちごと

坚田落雁把信传,心系矢桥盼归帆。

无处倾诉心绪烦。

 

藤の花房 いろよく長く

藤花串串色彩鲜,藤娘妩媚惹人怜。

 

可愛がろとて 酒買うて のませたら

うちの男松に からんでしめて てもさても

沽酒与之且销愁,酒醉男松干上缠。

 

十返りという名のにくや かへるという 忌み言葉

因与回转音相谐,拒呼松花惹心烦。

 

松を植よなら 有馬の里へ 植えさんせ

何時までも 変わらぬ契り かいどり褄で

植松要到有马去,海誓山盟永不变。

 

よれつもれつ まだ寝が足らぬ

宵寝枕の まだ寝が足らぬ

千恩万爱俱已疲,意犹未尽天色晚。

 

藤にまかれて 寝とござる

ああ なんとしよう どうしようかいな

曲终人散奈若何?温柔乡中松欲眠。

 

わしが子枕 お手枕

空も霞の夕照に 名残を惜しむ帰る雁がね

藤娘与松依依别,夕照归雁声声怨。

 

この優雅な歌詞をもって今回の歌舞伎紹介を終わりにする。

 

 (写真はインターネットから引用)

 

 

人民中国インターネット版  2017年4月7日

 

 

 

 

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