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武強年画『白珠関』(清代の作品) |
ここ近年は上演されることもなくなったが、『白珠関』は時代小説『説唐後伝』をもとにした伝統劇の演目である。『白良関』とも呼ばれる。
唐の貞観3年(629年)、北方民族のある国が唐王朝に反乱を起こしたため、唐の太宗・李世民(在位626~649年)は自ら20万の大軍を率いて討伐に赴いた。
命令を受けて白珠関を攻めた大将軍・尉遅恭は、第一陣でその関所を守る総兵・劉国貞を打ち破った。翌日、劉の息子・劉宝林が戦いに出る。宝林はまだ青年ながら武芸に優れ、尉遅恭と百回にわたって戦いを交えるも、勝負がつかない。
帰陣した宝林が尉遅恭と戦いを交えたことを口にすると、母はさめざめと涙を流し、それまで隠していたことを宝林に語り始めた。
母と尉遅恭とはもともと夫婦で、山西の朔州で鍛冶屋を営んでいた。唐王が兵を募った際、妻はすでに妊娠していたが、尉遅恭は太原へ行って従軍することを望んだ。尉遅恭は「尉遅敬徳(雌)」「尉遅宝林(雄)」という文字を彫りつけた一対の雌雄鞭(古代兵器の一種)のうち、雌鞭を自分が持ち、雄鞭を妻に託した。将来男の子を産んだら、父が見分けられるようその鞭を持たせることを約束した。
その後尉遅恭の行方は杳として知れず、妻は劉国貞にさらわれ、再三にわたって結婚を迫られる。妻は尉遅恭の後継ぎの命を守るため、意を曲げて劉に従い、名目上夫婦となった。それを聞いて宝林が鞭を取り出してみると、果たして「尉遅宝林」という四文字が彫ってあり、尉遅恭こそ血のつながった父親であることがわかった。
こうして、母子二人は劉国貞を打ち破る策を講じた。翌日、交戦中隙を見て父子であることを確認しあった後、宝林は敗れたふりをして白珠関に戻ると、つり橋の綱を断ち切り、唐の兵士を率いて劉国貞を殺した。
宝林の母は、不貞の汚名を被ったわが身の潔白は証明し難いであろうと考え、頭を壁にぶつけて死んだ。(写真・文 魯忠民) |