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山西の刺繍の財布『西廂記』の鶯鶯と紅娘
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唐の貞元(785~805年)年間、前王朝の崔相国が病で亡くなった。妻の崔夫人は娘の鶯鶯、侍女の紅娘一行30人あまりを連れ、相国の棺を埋葬するため河北に向かう。途中、しばらく山西の普救寺に逗留した。同じころ、科挙試験のために長安を目指してこの地に立ち寄った河南洛陽の書生・張キョウが、普救寺のあたりを散策しているときに鶯鶯と出会い、恋に落ちた。ある晩、張は壁を隔てて声高らかに詩を詠んだ。鶯鶯もたちまちこれに答え、互いの心を打ち明けあった。
時に叛乱を起こした孫飛虎が寺院を囲み、鶯鶯を無理やりわがものにしようとした。困り果てた崔夫人は、兵を退かせる良策のある者に鶯鶯を嫁がせると約束した。これを聞いて立ち上がった張は、白馬将軍に手紙を書いて助けを求め、賊兵を撃退した。
しかし、こともあろうに崔夫人は約束を守らず、婚約を反故にした。そのため張は病に伏してしまった。紅娘は張に献策し、鶯鶯への手紙を仲介することで張と鶯鶯の深夜の密会を手引きし、ふたりが結ばれるよう促した。これに気づいた崔夫人はカンカンに怒り、紅娘と相争う。ようやく崔夫人は娘が張に嫁ぐことを許したものの、上京して科挙に合格することを条件とした。
受験した張生は、トップの成績で合格。しかし崔夫人の甥の鄭恒が「張は尚書の婿になった」とデマを言いふらし、鶯鶯を自分に嫁がせるよう崔夫人に迫る。この時、張が普救寺に戻り、白馬将軍の助けを借りて鄭恒の陰謀を暴き、ようやく鶯鶯と夫婦になれた。(写真・文 魯忠民)
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