竜興寺大斉碑(左①)573年建造の竜興寺大斉碑は、北斉時代から伝わる中国最大の石碑であるが、現在は青州偶園内にある。唐代、竜興寺には本山、塔頭合わせて数千人の僧が住んでいたといわれる。円仁は青州到着後、竜興寺新羅院に逗留した。
唐代のキササゲの樹(左②)このキササゲの老樹は、840年旧暦4月1日、円仁が青州府長官に会い、長い間待ち望んでいた公式通行許可証を、ついに交付された場面を目撃していたであろう。円仁は、長官が「打毬場」に出かけたこと、「打毬」(ポロのような競技)に人気があったことなどを記している。
駝山に向かう高齢ハイカー(左③)青州周辺では、いまでも駝山石窟に向かう昔ながらの古道をたどる人々が多い(駝山は山の背が駱駝のこぶに似ているところから、この名がついている)。この光景は、唐代に聖地巡りをした巡礼者の群れを彷彿させる。
青州博物館の菩薩立像(右③)青州博物館は、再び日の目を見た仏像の修復と展示を目的として建てられた。破壊された仏像は、おそらく宋代に入って寺院が再建された際に埋められたものと、研究者たちは考えている。この菩薩像も東魏時代の制作である。
青州博物館の仏陀立像(右②)青州到着後5年足らずのうちに、仏教弾圧の勅令によって竜興寺の美しい仏像は破壊され、僧侶たちは還俗させられ、経典が焚書に処せられようとは、円仁には想像もできなかっただろう。1996年10月、小学校の校庭の下に、多数のみごとな仏像が埋められているのが発見された。仏像の彩色はいまなお鮮やかであった。写真の仏像は東魏時代(534~550年)のものである。
唐代の駝山石窟仏像(右①)駝山にはいまでも唐代の石窟が数多く残っている。ここに漂う聖なる香気と仏教芸術の精華を、円仁もまた旅の途中で味わったことであろう。 |