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慈覚大師円仁 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた | |
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円仁と2人の弟子に従者を加えた4人は、山東半島の海岸伝いに、登州(現在の蓬莱市)都督府を目指した。4人にとって、今回が初めての4人だけの旅であり、かつ人々のお布施に頼って食と宿とを得る旅であった。
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写真① | 円仁は、塩を採る場所を渉っていったと述べている。今日でも、浜辺には塩田が広がり、昔と同じ方法で海水を天日に干して塩を生産している。(写真①)
円仁がたどった道筋を走る高速道路に、「牟平出口」の表示が出ていた。ここは廬山寺に一夜の宿を求めて一行が足を留めた場所に違いない。円仁が日記に記した古い地名は、現代の地図でも立派な道標として役立っている。
円仁日記は、風景や一般庶民の当時の状況をつぶさに観察した描写に満ちている。彼の日記から私たちは、「文登県境界の赤山から登州まで人家はほとんどなく、一帯はすべて山野である。牟平から登州までは北海に沿って行った。ここ数年、この地方は害虫の被害が大きく、農民たちは飢えてトチの実でしのいでいた」ことがわかる。
登州の開元寺にたどり着いたとき、「歩きに歩いて足を腫らしていた」と、円仁は書いている。開元寺は当時蓬莱最大の寺院で、城内西南隅にあった。
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写真② | 残念なことに、今では寺院の土台を埋め立てて、遺跡の上に住宅団地が建ち、「寒玉井」と呼ばれた古い井戸も埋められていた。住宅裏手に、古寺の塀の一部が申し訳ばかりに残っている。ここで、円仁たちはほとんど消えかけた壁画を見ている。それは、前任の日本人使節の願によって描かれたものだったが、辛うじて「日本国」の三文字と、願をかけた日本人使節たちの官位姓名が読みとれるのみであった。(写真②)
幸い、円仁は壁画の横に消え残っていた文字をすべて写しとった。この貴重な「日本国」に関する記述と、日本人滞在者の名前は、たまたま円仁がそこを訪れたことによって、後世に残ったのである。これを見たのは円仁が最後であった。開元寺は、その後数年にして仏教弾圧のなかで崩壊した。
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写真③ |
登州の北部は大海で、海に面して小さな廟があると円仁は記している。この言葉から察するに、明らかに蓬莱閣の中にある龍王廟を指していたと思われる。その中庭には、樹齢千年の槐の古木が今も生きている。日照りになると、人々は龍王像を日向に出して汗をかかせ、それによって雨を降らせるという。ラの蓬莱水関は中国最古の海軍基地城砦であり、渤海と黄海の境界線上にある海を見渡している。(写真③)
晴れた日に城砦の塁の上に立つと、島々が連なって渤海湾に伸びているのが見える。初期の日本遣唐使団は、朝鮮半島に沿って、より安全なこのルートから中国に近づいた。事実、遣隋使はすべてこのルートをとっている。日本の使節団が、黄海を渡って直接中国に入る航路をとるようになったのは、百済が崩壊して、日本と朝鮮半島との同盟関係が消滅した後であった。
朝鮮半島からの往来が比較的容易であったことを考えると、円仁が登州には朝鮮半島出身者が大勢いたと述べているのも不思議ではない。「城南街の東側に新羅館と渤海館がある」と、彼は書いている。2002年、私がゲストハウス蓬莱飯店を訪れたとき、ピンク色のミモザの花が盛りであった。ここが前述の新羅館の跡地であった。
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写真④ | 円仁は穀物の値段に詳しい。「城市の東側に市場あり、粟米1斗30文、うるち米1斗70文」と記録している。1斗=5.9リットルとわかっていても、1997年に蓬莱市の穀物店で売られていた穀物の値段と、840年当時の値段とを比べるのは無理な話だ。それでも私は、1997年、米5キロ12元、小麦粉10キロ29元と記録した。(写真④)
円仁は登州長官に対して、五台山への巡礼を認可する特別通行許可証を交付していただきたいと請願した。これとは別に剃刀と衣鉢の携行も申請した。当時これらの品は輸出入禁止品とされ、携行するには認可が必要だったからである(毎日剃髪し、托鉢する僧には不可欠の品だが)。長官は仏教への信心厚く、円仁に旅行中の食料を布施してくれた。しかし、長官が発行できるのはまたもや暫定的な旅行許可証であり、正式の通行許可証は青州節度府で発行されるものでなければならない、と円仁に告げた。
警備長官の王長宗は、円仁の旅の仕度として、食料を運ぶためのロバ一頭を贈ってくれた。登州に10日間滞在した後、円仁一行とロバ一頭は青州に向かって再び道をたどった。
840年旧暦3月12日の日記にはこう記されている。「40里を行き、黄県管内の少家に着いて一泊した。この家の主人は礼を欠いていた」。翌日一行は「戦斎館のけちな主人」のところで非常に粗末な昼食をあてがわれた。私の友人の奥さんの先祖は、戦斎館の出身であるという。円仁の経験では、そこはあまり親切な土地柄ではなかった、とは私はあえて言わないことにしている。 (阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池 晴子=訳)
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阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。 | |
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人民中国インターネット版
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