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慈覚大師円仁 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた
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円仁とその弟子たちは、目的地である仏教聖地五台山まであと一息の地点にまで来た。時は840年旧暦4月であった。
円仁は日記にその経過をこう記している。
「27日、……大復嶺を越えた。嶺の東側では谷水は東に向かって流れ、西側では谷水は西に向かって流れている……道は次第に下りとなる」
「松の緑は青い空に映えている。嶺の西側では樹々の葉はまだ芽吹いていない。……夕暮れに角詩普通院に到着した」
五台山への道は、石咀村で西北に曲がる。老いた槐の樹がまるで見張りをするかのように高くそびえ立って、普済寺への入口を示す標識となっていた。ここは古くは関所の町であった。敦煌第61石窟にその名があるところを見ると、円仁がここを通過したとき関所はすでにあったはずだ。同石窟には、唐代の五台山地域の寺が描かれている。この槐の樹が語れるものなら、何世紀もの間ここを通り過ぎていった巡礼者たちについて、何を語るだろう? 異国僧円仁の小さな一団を覚えているだろうか。
五台山地域に到達するには清水河で最後の一押しをしなければならない。円仁たちは、山東省石島から五台山まで44日間歩き通し、1270キロの行程の終わりに近づいていた。840年旧暦4月28日、円仁が初めて聖山の頂きを望み見たのはまさにこの地点からであった。万感胸に迫り、「地にひれ伏して遥かにその頂きを礼拝すると、不覚にも涙がこぼれ落ちた」と彼は述べている。
「この地こそ清涼山の金色に輝く世界であり、文殊菩薩が衆生のためにお姿を現されたところである」と円仁は書いている。一行はついに聖域に入り、古くから伝わる「清涼山」の名でこの地を呼んでいる。清涼山の聖人と伝えられる文殊菩薩の名を唱え、いまやその魂の救いのもとに入ったのであった。 (阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池 晴子=訳)
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(左①)鉄堡村への入口 古道は鉄堡村入口の真下を通っている。新しい道路が近くに建設されていたが、私は古道をたどって村の中に入っていった。村人たちがかたまって、午後の日差しを浴びながら石畳の小道にうずくまっていた。彼らは、外国人がその小さな村を通り過ぎても、いっこうに気にしていないようであった。多分円仁もここで同じ経験をしたことだろう。
(左②)老爺廟と子供たち(鉄堡村)子どもたちが昔の老爺廟の中庭で遊んでいた。ここはかつて巡礼者たちを泊める「普通院」として使われていた所だが、今では鉄堡村小学校になっている。写真の子どもたちは外国人を見ると、老人たちより生き生きと反応した。
(左③)石畳の道(山西省金剛庫村)私は、金剛庫村を縫って走る、踏み固められた古い石畳の道をたどった。円仁一行は1日平均30キロから40キロの道のりを走破したが、歩く道は官道もあれば、このような古びた石の小道もあった。
(左④)金剛庵の究空尼僧院長(金剛庫村)私はこの尼僧院や五台山での供養会で、究空尼僧院長に数回もお会いする幸運に恵まれた。会うとまるで旧知の友(老朋友)のように肩を抱き合う。彼女は強い信念を持った敬虔な尼僧である。
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阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。
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人民中国インターネット版
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