|
|
|
|
|
|
|
野良仕事に出かけるナシ族の女性 |
|
|
|
|
|
風化した石塊を切り出して建てた民家建築。頑丈で風砂にも耐える |
|
|
|
|
|
村の入り口で休んでいたナシ族の青年 |
|
|
|
|
|
ナシ族の老女 |
|
|
|
|
|
玉湖にある「竜女樹」 |
|
|
|
|
|
ナシ族の家で、食糧の日干しに使う竹ざるを編んでいた |
|
|
|
|
|
玉湖村小学校で基礎教育を受ける子どもたち |
|
|
|
|
|
玉湖村の村人たちは、二頭の牛を使った伝統的な方法で田畑を耕している |
|
|
|
|
|
玉湖村にあるロック氏の旧居 |
|
|
|
|
|
玉湖村に暮らしたジョセフィン・ロック氏(左端、和鍾沢氏提供) |
|
|
|
|
|
ロック氏がかつてこの地で撮影したナシ族女性の写真(和鍾沢氏提供) |
|
|
|
|
|
ナシ族の家では、野生の食用キノコを日干しにしていた |
| 玉湖村は、雲南省麗江ナシ族自治県の最北端にある小さな村だ。北は玉竜雪山によりそい、南は麗江古城に面している。麗江県城(県庁所在地)までは、わずか18キロ。玉竜雪山のふもとにあるため、「玉竜雪山第一村」と称されている。
その祖先からここに暮らしているナシ族の人々は、村の名前にもなった玉湖を「巫魯肯」と呼んでいる。「雪山のふもと」という意味である。玉湖村から標高5596メートルの玉竜雪山を遠望すれば、雪山が高々とそびえ立つさまは雄大である。万年雪を頂く13の山峰が、北から南へとズラリと並んでいる。白雲が峰をとりまき、紺碧の空に映えて、それはまるで一匹の竜が空に舞うかのようである。
玉湖村は標高2600メートル。その山林面積は9万ムー(1ムーは6・667アール)、森林面積は6万ムーで、森林の被覆率は29・5%に達している。ナシ族、ミャオ族、ペー族、イ族、リス族など多くの少数民族が暮らす村落だ。現在、人家300戸以上、人口千人あまり。そのうちナシ族は95%を占めている。全国におけるナシ族の人口は28万人近くだが、そのうち雲南省には26万5000人あまりが暮らしている。おもな居住区は、麗江ナシ族自治県と寧ロウ、永勝、維西、シャングリラ(中甸)、徳欽などである。
古くは一千年以上前、ナシ族はみずからの象形文字を作りだし、その文字を使って『東巴経書』(経典)を著した。こんにちまでに二万冊あまりの『東巴経書』が伝わっており、古代ナシ族の生産や暮らしなど各方面における内容が記録されているという。東巴文化の比較文字学、人類文化史学などにおける研究は、きわめて高い学術的価値がある。
山地の真夏は、厚い雲がたちこめて大粒の雨が真っ向から降ってきたかと思うと、一陣の風とともに雲が消え、雨がやんで晴天となる。しかし標高が高いために、雪山のふもとを歩くと息切れがして、ヒンヤリとした感じを覚えた。なだらかに続く緑の草原には、黄色い野菊が満開だった。高く青い空のもと、牧民たちが羊や馬を放牧しながらゆったりとした鼻歌を歌っていた。
広大な草原にある小さな玉湖は、大地にまいたしずくのようだ。それは陽光に照らされて、色とりどりの光が反射していた。湖には、奇妙なことに一本のカエデの古木が枝葉を繁らせていた。言い伝えによれば、この玉湖は、明代以前に木氏一族の土司(当時の少数民族の族長)が、玉竜雪山のふもとに人工的に掘りだしたものであるという。雪山と森林の景色が湖に映り、白と緑の色が映えて美しい玉を思わせるので、玉湖という名前がついた。もちろん村の名前も、そこから生まれたものである。
湖のカエデの古木については、ある悲しい物語が伝えられている。昔、木氏一族の土司が、その娘を永寧に住む「巴人」の王子の妃として嫁がせた。しかし結婚後、妃はたびたび「永寧は、麗江の美しさには及ばない」と言ったため、王子には麗江を占領したいという野心が芽生えた。そして、ナシ族の祭りのときに麗江に攻め入るという計画を立てた。しかしその情報がどこからか漏れ、土司は兵に待ち伏せをさせて、「巴人」の進攻を撃退した。その後、土司は謀反を起こした自分の娘(妃)を、玉湖にある亭に監禁した。食事も水も与えなかったが、妃はその美しく長い髪を湖にたらして水を汲みとり、のどの乾きを癒したのである。妃の美しさは変わらなかった。それを発見した土司は慌てふためき、むごいことに妃の髪をすっかり剃り落としてしまった。ついに妃は、亭の中で亡くなった。妃の死後、湖の中からみるみるうちに枝葉を繁らせた一本の大樹が伸びだした。人々はそれを妃の化身と考え、「竜女樹」という名をつけたのである。
玉湖から離れて十分ほど歩くと、玉湖村の入り口に着いた。雨が止んだ後の道はぬかるんでいて、村人たちは家の周りで忙しそうに働いていた。老人たちは孫を背負ってぶらついており、小学校の窓からは元気あふれる子どもたちの朗読の声が聞こえ、山村の静けさを打ち破っていた。
ここの特殊な気候と環境により、建物の壁はいずれも風化した大きな石塊を積み重ねたものだった。外観からすると非常に原始的なのだが、現地で容易に材料が採れ、コストがかからず、頑丈で風砂にも耐えるものである。また冬暖かく、夏涼しい。このような民家建築様式は、ナシ族の居住地区でも珍しい。
村の中央には、かつてのアメリカ国家地理学会・中国雲南探検隊本部の旧跡と、オーストリア系アメリカ人の植物学者で地理学者、人類学者のジョセフィン・ロック氏(一八八四~一九六二年)の旧居があった。典型的なナシ族の住居で、数人のナシ族の老人たちが旧居の中庭でそれを見守っていた。取材の目的を話すと、老人はおもむろに腰にくくりつけたカギを取りだし、ゆっくりと扉を開けた。天井の低い部屋の中には、ロック氏がかつて使ったベッドや机、イス、火鉢、書棚、ランプ、目覚まし時計などの用具がそのままに置かれていた。四方の壁には、かつてロック氏が麗江で暮らし、働いたようすを写したスナップがいっぱいに掛けられていた。それらの貴重な写真を眺めつつ、ロック氏がナシ族の地域で探検し、暮らし、科学調査を行った足跡を探ってみることにした。
ジョセフィン・ロック氏は1884年1月13日、オーストリアのウィーン生まれ。青年期にアメリカに移住し、ハワイ大学の植物学教授となった。1922年に初めて麗江を訪問。アメリカ農業省とハーバード大学植物研究所の仕事に当たるためであり、またアメリカ地理学会・中国雲南探検隊隊長という任務にもあった。そのため玉湖村に住んだのである。
当時38歳のロック氏は、玉湖村でナシ族の文化と生活習俗の研究に打ち込んだ。村人たちと生活を共にし、27年間にわたってナシ族の生活に溶け込んだのである。そして、多くの貴重な歴史写真と文章をアメリカの雑誌『ナショナルジオグラフィック』に発表。神秘的な麗江と悠久のナシ族文化を世界で初めて紹介し、国際学界において「ナシ学の父」と称えられたのである。玉湖村に暮らした27年間、ナシ族のさまざまな伝統儀式や祭祀活動をその目で見たり、それらに参加したりした。そして数多くの記録を残し、分散していた『東巴経書』を集めて整え、そのうちの百余冊を翻訳した。
アメリカの学者、マイク・アイダホワズ氏は、『ナショナルジオグラフィック』の署名入りレポート「中国にいた我々のロック」で、こう書き記している。
「我々のロックは、我々のところにいたばかりではない。植物学者として、ハワイ大とハーバード大にもいた。またハーバード大では、彼を歴史学者、言語学者として認定していた。しかしさらに重要なのは、彼が中国にいて、雲南省麗江にいた、ということなのだ……」 (馮進=写真・文)
人民中国インタ-ネット版
|