2000年あまり前の新年
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民間年画『十月寒冬賞梅図』
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中国には、多くの伝統的な祭日がある。たとえば、旧暦1月1日の春節、1月15日の元宵節、2月2日の春竜節、3月3日の上己節、4月8日の浴仏節、5月5日の端午節、6月6日の天・節、7月7日の七夕節、8月15日の中秋節、9月9日の重陽節、10月1日の寒衣節などである。しかしこのうち、春節と寒衣節だけが「1日」である。それはなぜか?
1月1日の春節は、前漢(前206~紀元25年)から現在まで、2000年あまりつづく旧暦の新年である。また、10月1日の寒衣節は、さらに古い秦代(前221~前206年)の新年であった。研究によれば、秦国が10月1日を1年の始めにしたのは、彼らが興した西北地区がチャンロン(羌戎)部族に属していたことと関係がある。つまり、古代のチャンロン人が、10月1日を新年としていたのである。
しかし、秦の歴史も、暦法を使った間も短かったので、10月1日の新年は歴史から消えていった。国の政令で暦法は改められたが、一部の地方では、民間にその習慣が残されていった。たとえば、現代の人々は、10月1日の寒衣節に祠堂へ行って先祖を祭り、先祖の墓に紙銭と冬着を送っている。それは、古くから今に伝わる、新年を迎えるもっとも重要な習俗の1つである。
今でも西南地区の一部の少数民族のなかには、こうした習俗がほぼ完全に残されている。四川省では、チャン族が10月1日に「チャン年」(チャン族の新年)を祝う。雲南省、四川省、貴州省などに住むイ族も、10月1日(または10月上旬)に「イ年」(イ族の新年)を祝うなど。
また、チャンロン人の末裔である雲南省のハニ族も、10月1日を1年の始まりとしている。5日間から13日間にいたる「10月年」には、どの家でもブタや牛をつぶして、酒を醸造し、「粑粑」(もち米をついて作った食物)や「湯円」(あん入りのだんご)をつくる。一家団らんしたり、酒盛りしたりするだけでなく、夜になると村の外でかがり火をたき、歌ったり、踊ったりする。また、この間、ハニ族の人々は天地と先祖を祭り、年長者に新年のあいさつをして、新年を祝い豊作を祈る。こうしたハニ族の新年の情景は、2000年あまり前のチャンロン人と秦代の人が、新年を祝った習俗を思い起こさせるものだ。
「跳禾楼」と「牛王節」
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10月1日は、道教の水官の生誕日でもある。図は、水官神像 |
中国は広大で、南北の気候の差が大きい。そのため、祭日や風俗習慣も異なるところがある。北方の人が墓参りをして、先祖に冬着を送るとき、南方の広東省ではまだ暖かいので、衣替えの季節にはなっていない。そのため、先祖に冬着を送るという意識も習慣もない。このとき、晩稲を刈り入れたばかりの農民たちは疲れているので、娯楽や休みが必要になる。そこで、多くの村落には「祭田祖」と「跳禾楼」というならわしがある。
広東省西南部の化州では、10月に刈り入れ祭の「禾了節」を行うときに、村の広場か、または土地廟(土地神を祭ったほこら)に「禾楼」という塔を建て、田の神様である「田祖」と「禾穀夫人」の絵を供える。その後、家々で供え物を用意して、豊作か凶作かという1年の成果を田の神様に報告し、来年の豊作を祈りながら厳かにそれを供養する。供養がすめば、家ごとに集まって宴会を開く。
夜になると、村をあげて跳禾楼を行う。若い男女が次から次へと禾楼にのぼり、ドラや太鼓を打ち鳴らす。「対歌」(歌垣)をしたり、踊ったりして、心ゆくまで楽しんでから帰途につくのだ。
民俗学者によれば「こうした民間行事の跳禾楼は、古代にあった土地や穀物の神様への崇拝から生まれたようだ」ということだ。それは、秦代に新年を祝ったさいの「祭祖」(先祖を祭る)、「酬神」(神様に感謝する)、「卜歳」(新年を占う)という遺風を思い起こさせる。
農家が穀物の神様を祭るときには、役牛の功績も忘れない。広東省、四川省、貴州省などでは、10月1日に、役牛のために「牛王節」を行う。たとえば、貴州省盤県では10月1日に、村ごとに爆竹を鳴らし、祭りのムードを盛りあげる。そして、どの家でも牛を洗い、きれいに飾りたてて、1日じゅう休ませる。さらに、収穫したばかりのもち米で作った粑粑を野菜の葉で包み、牛に食べさせてから、2つの粑粑を牛の角に掛ける。最後に、牛を河辺まで引き、河の水を飲ませながら、水面に映る角の上の粑粑を見せる。粑粑を見た牛はうれしくなって、翌年はいっそう真面目に田を耕してくれる、と考えられている。
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