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天気図のスクリーンを操作する楊貴名さん | 楊貴名さん(51歳)は中国気象局国家気象センターの首席予報員。1982年に蘭州大学の気象学学科を卒業して以来、気象台にずっと勤め、もう25年になる。この間の変化について、「勤め始めたばかりのころは、今のような先進的な設備はなく、電報で受け取った気象観測資料をもとに、毎日、手で天気図を制作していました。手作業だと時間も手間もかかり、残業しなければ終わらないことも度々でした」と話す。しかし80年代の気象台はすでに、それまでと比べて大きく変化していた。
1949年、新中国が成立してまもない頃、気象局は軍隊編制下の機関として設立された。主な業務は、空港に天気予報や実況を提供することだった。
1954年、気象局は政府の機関となり、業務内容も、民用航空や海運、漁業、農業、林業のために気象情報を提供することに重点がおかれた。そして1956年、一般の人々に向けた天気予報がラジオで始まった。
1980年、気象局は中国中央テレビ局と協力してテレビで天気予報を開始した。始めは8都市の天気情報しか伝えていなかったが、次第に多くの都市の情報を伝えるようになり、画面も内容も豊かで、美しくなってきた。当時、視聴率がもっとも高く、もっとも人気のあるテレビ番組は天気予報で、一日の視聴者数は延べ数億人に達していた。
1993年にはお天気キャスターが登場。「お天気お兄さん」や「お天気お姉さん」がお茶の間に浸透するようになった。また、各地の天気予報をはじめ、海洋の天気予報や気象と農業の関わり、旧暦の節気の紹介など内容も豊かになり、立体の天気記号や天気図、衛星画像なども現れた。
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オリンピック期間の天気予報について打ち合わせをする国家気象センターと北京市や河北省、青島市などの気象部門の関係者 |
キャスターが天気予報を伝えるときも、昔のようなかたい話し方ではなく、自然で親しみやすい話し言葉を使うようになった。たとえば、「今日は高温と降雨が対峙する天気となるでしょう。南方は引き続き高温多湿な天気で、青空が続く一方、じめじめとした感じも続きます。カビが生えやすいものは風通しのよいところに置きましょう。気持ちまで湿っぽくならないよう、気をつけてください」というように。これにより、天気予報と視聴者の距離は近づいた。
天気予報の内容も、昔は晴れ、曇り、雨、風向き、風力といった程度だったが、今では霧、もや、スモッグ、砂ぼこり、雹、みぞれ、そして空気の良し悪しなどにまで広がった。なかでも、気象衛星画像の出現により、天気の変化をリアルかつ直接観察できるようになったため、視聴者たちの好奇心は満たされ、気象に関する知識も増えた。
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