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河南省安陽市・殷墟 世界四大古代文字の一つ 甲骨文字の里

 

エン河の南岸にある殷墟の宮殿宗廟区(写真提供・安陽市政府新聞弁公室)

 商代の殷墟文化は、都市、文字、青銅器という三つの要素を有する、輝かしい文明である。――中国の著名な考古学者・夏ダイ

 

殷墟の由来  

 

殷墟は、河南省安陽市北西部のエン河の両岸に位置している。中国商代後期(紀元前1300年~同1046年)の都城所在地であり、当時の政治、経済、軍事、文化の中心であった。紀元前14世紀の末期に商王の盤庚がここに遷都して以来、商の紂王の時代に国が滅びるまで、8世12人の王を経て273年間続いた。 

 

商王朝が周王朝によって滅ぼされたのち、都城はすっかり荒れ果ててしまった。この地はもともと「北蒙」という地名であったが、又の名を「殷」というため、後世の人によって「殷墟」と名付けられた。

 

 竜骨から発見  

 

占いの道具として、甲骨文が刻まれた牛の肩胛骨
 1899年のある日、清の翰林(皇帝の秘書官)であった王懿栄は、服用している漢方薬の「竜骨(古代の動物の化石、漢方薬では強壮剤として用いる)」に、青銅器の銘文とよく似た記号を発見した。偶然に発見されたこの手がかりによって見つかったのが、「竜骨」の産地である河南省安陽の小屯村(現在の殷墟所在地)である。こうして埃に埋もれていた商王朝の3000年余りの秘密が、少しずつ明らかにされていった。  

 

考古学者はこの発掘から、敷地面積24平方キロメートルに及ぶ殷墟が、配置のきちんと整った厳密な構造の都城遺跡であり、高度に発達した奴隷制社会の縮図であったことを裏付けた。ここには壮大な規模の宮殿や宗廟もあれば、庶民の居住区や奴隷の居住区もあった。また、銅器鋳造、骨器、陶器などを製造する手工業の工房もあった。面積の広い皇族の陵墓だけでなく、庶民の墓地もあった。  

 

突き固めた、柱礎石、門道などの建築が残った乙20宗廟遺跡の上に建てられた殷代の建物を模した大殿
 エン河の南岸に位置する宮殿宗廟区は、殷墟のもっとも重要な構造部分の一つである。南北の長さ約1056メートル、東西の幅約650メートルで、総面積は68万7000平方メートルに及ぶ。ここは商王が政務を執り行い、寝起きをする場所であった。現在、80余りの宮殿宗廟の突き固めた土で造られた基礎建築の跡が発掘され、整理された。非常に大きな規模であったため、発掘の際、その配置によって遺跡は甲、乙、丙の三組に分けられた。  

 

殷墟遺跡の保護のため、地下部分を覆い、地上部分を模造して展示するやり方を取った。宮殿宗廟の遺跡区の乙二十宗廟遺跡には、殷代の「茅茨土階(茅で屋根を葺き、突き固めた土の階段)、「四阿重屋」(斜めになった四面の屋根の二重ひさし)」の様式になぞらえて造られた建築がある。考古資料と古文献の記載をもとに、専門家たちの度重なる論証を経て建てられたものである。3000年あまりの時を経て、今日に至っても商代の建築の壮麗な輝きを感じることができる。

 

世界に誇る甲骨文字  

 

殷墟から出土した甲骨文の刻まれた亀の甲羅
 この百年あまりの間に、殷墟からは16万枚以上の甲骨片が発掘された。これまでに中国で発見された甲骨文字の大部分は、ここで出土したものである。甲骨文字の専門家たちは、これらの甲骨片に4500以上の字を発見、そのうち1700字あまりを判別した。  

 

甲骨文字は、エジプトのパピルス文字、古代バビロンの楔形文字、古代インドの文字とともに世界の四大古代文字の一つであり、中国最古の熟成した文字としても知られている。判別可能な文字から、甲骨文は「象形」「会意」「形声」「指事」「転注」「仮借」の六書の造字法からなっていることがわかっている。その書き方は3000年あまりの間に変化を重ねてきたものの、現在世界の4分の1の人口が使用している漢字には、形、音、義を特徴とする文字と基本的な語法は依然その原型をとどめている。独自の風格をもつ甲骨文の文字は、いかなる外的要素にも影響されることなく、数千年にわたって一貫して用いられ、衰えることはなかった。他の三種の古代文字がもはや失われてしまった今でも、依然として粘り強い生命力を誇っているのは、世界の文化史上、未曾有である。

 

殷墟から出土したT字の継ぎ目のある3000年前の陶製のパイプは、現在我々が使用しているものと大差ない

 乙二十宗廟遺跡の北西部に、 YH127と呼ばれる甲骨が見つかった穴蔵の展示ホールがある。ホールの中央にある土の坑に、当時の様子が復元されている。1936年6月12日、この地で中国の考古学者が甲骨片を発見した。その後、この坑からは1万7096枚の甲骨が出土した。中には無傷の亀甲は300枚余り、卜骨(占い用の骨)8枚も含まれる。出土した際、これらの甲骨は一体の人骨と積み重なっていた。これは占いの後にわざわざ商王が埋蔵したもので、専門家はこの人骨は保管係であろうと考えている。  

 

これを参観した国連ユネスコの世界文化財の評定専門家・金秉模氏は、「私の知る限り、人類の最古の古文書に違いない」と述べている。

 

最高峰の青銅器

 

殷墟の宮殿宗廟区の婦好墓から出土した司母辛青銅鼎 

 宮殿宗廟の遺跡区内に、大量の殉葬坑がある。3379平方メートルの面積の乙七宗廟の基址と宗廟の祭祀場で、殺害された殉葬の人骨600体余り、また、多くの殉葬の馬、牛、羊、犬の骸骨がここで発掘された。

 

 殷墟の王陵区は、東西の長さ約450メートル、南北の幅約250メートル、総面積11万平方メートルに及び、茖河の北岸に位置する。ここでは、十三の王陵の大型陵墓及び2000余りの殉葬坑と祭祀坑が発掘されている。この区域で出土したもっとも重要なものに、1939年にM260号墓から出土した司母戊鼎がある。この長さ1.1メートル、幅0.78メートル、高さ1.33メートル、重さ875キロの大きな鼎は、殷墟から出土した青銅器の中でも逸品であり、中国で出土した最大の青銅器でもある。その大型の形、精密な模様、完璧な鋳造技術は、青銅時代における最高峰で、殷商の先人の知恵と創造力を示し、中国古代の青銅器を代表するものである。 殷墟の青銅器は殷墟鋳造工業が発達していたことの象徴であり、全部で六千点余りの形と大きさの異なる青銅器が出土したここは、中国の青銅時代の文明史において重要な地位を占めている。

 

最古のオンパレード

 

 殷墟には、中国古代の文明史における「最古」ものが少なくない。

 

「中国最古の文献の記載、考古学的に発掘、裏付けられた都城」

 

 「文献の記載があり、考古学的に発掘、裏付けられた中国最古の皇陵」

 

 「人類の歴史上、現在に至るまでに発見された最古の『古文書庫』」

 

 「中国最古の車馬の遺跡を留めた車馬坑」

 

 「さまざまな材質の精美な文物が1928点出土した、中国最古の女子将軍の墓である婦好墓」……

 

 現在でも、殷墟では考古調査と発掘が続いている。

 

 

アクセス 安陽市から北京市までは約500キロ。

 

鉄道 全国各地からの列車が毎日71本止まる。うち北京発列車は23往復。北京から安陽までの運行時間は列車によってそれぞれ異なり、3時間40分から7時間40分までとなっている。

 

高速道路 北は北京市、南は広東省、西は山西省、東は山東省まで、至るところへ高速道路がつながっている。

 

観光シーズン

 

安陽市は暖温帯・亜熱帯、湿潤・半湿潤モンスーン気候に属する。冬は寒く、雨や雪が少ない。春は乾燥して風や砂が多く、夏は暑く降雨が多い。秋は晴れて暖かく日照時間もたっぷりである。年間平均気温は、一般に12度から16度、1月は零下3度から3度、7月は24度から29度になる。

 

 

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