1月号のこのコーナーで、中国共産党と中国国民党の戦いでの北京平和解放について書いたが、元王朝と明王朝の戦いでも、それに続く明王朝と清王朝の戦いでも、北京はほぼ平和「解放」であった。
元・明合戦では、明軍の攻撃を待たずに元の皇帝の順帝や皇太子たちは、北京の北の城門である徳勝門から故郷の蒙古草原に脱出している。その三日後、洪武元年(1368年)8月2日に明の名将である徐達将軍の率いる明軍が、北京の東の城門である朝陽門から入城した。
徐達将軍は平和「解放」を心がけ、何人かの例外を除いて、元の将軍や大臣を殺さなかった。そして、住民の生命、財産を傷つけないよう、部下にきびしく命じた。史書は北京は一夜で平静を取り戻したとし、「官民安居し、市乱れず」(『明史』)と書いている。
その後の200余年の平和が続く北京で、明王朝は城を建て、城壁を築くことに精をだした。ユネスコの世界遺産に登録されている紫禁城(故宮)しかり、八達嶺などの万里の長城しかり、すべて明王朝の代表作である。
続く清王朝の北京入城は、もっと平和的だった。清の順治元年(1644年)5月2日、順治帝の叔父にあたる摂政のドルゴンの率いる清軍が、明王朝の文武百官に迎えられ、朝陽門から北京に入城し、まったく無抵抗のなかで紫禁城に入っている。
翌日には、明王朝のすべての役人を現職に留める布告をだし、その翌日、つまり5月4日には、北京陥落を前に自害した明王朝最後の皇帝である崇禎帝のために三日間の喪に服するよう全官民に命じ、崇禎帝の陵墓の建造を指示している。
清王朝が矢継ぎ早にだしたこうした懐柔政策が効を奏し、北京は平和裏に明王朝の首都から清王朝の首都となる。その後の200余年の平和が続く北京で、清王朝は御苑づくりに熱をあげる。ユネスコの文化遺産に登録されている頤和園や8カ国連合軍に破壊された円明園、香山公園と名を変えて市民の行楽の地となっている静宜園などは、清王朝の御苑の代表作だ。世にいう明王朝の城づくり、清王朝の庭づくりである。
これより先、10世紀から12世紀にかけては契丹族の遼が、12世紀から13世紀にかけては女真族の金が北京に都を置いている。こうして、10世紀から20世紀の千年にわたって、北京は契丹族の遼、女真族の金、蒙古族の元、漢族の明、満州族の清と、さまざまな民族の都となってきた。
契丹族は遊牧民族、女真族は農耕・狩猟・遊牧民族、蒙古族は遊牧民族、漢族は農耕民族、満州族は半狩・半農の民族である。民族と民族との間では、あれやこれやの問題もあったが、総じていえばたがいに重んじあい、学びあい、助けあってきたといえよう。北京を舞台に、農耕民族、遊牧民族、狩猟民族が一つに溶けあって千年も暮らしてきたのだ。
東西南北から集まった農耕民族、遊牧民族、狩猟民族が、山あり、川あり、平野ありの恵まれた北京の大自然に育まれ、『論語』の教える「和をもって貴しとなす」や「和して同ぜず」で和の心を磨きながら……。
この北京でオリンピックが開かれる。素晴らしいことだ。ヒノキ舞台の幕が上がるのを、北京っ子は指折り数えて待っている。舞台の裏の片隅でもいい、せりふ一つない黒子でもいい、この舞台に身を置いて、先人が残してくれた和の心にさらに磨きをかけ、和の輪がさらに大きく広がっていくのを一目でも見たいと願っている。
こうした願いが「同一个世界、同一个夢想――同じ世界、同じ夢――One World One Dream」という北京オリンピックのスローガンを生んだのだろう。
北京オリンピックのこのスローガンは、古都北京で半世紀以上も暮らす私には、「和をもって貴しとなす」の『論語』の現代版の一句にも感じられる。歴史の深みと現代の重みが一つになって、私に呼びかけているのだ。
北京オリンピックのこのスローガンは、中日両国のはざまで半世紀以上も絆を強める仕事をしてきた私には、「中日両国民の世々代々の友好というスローガンは、私たちみんなの理想をしめしています」と語ったオヒ小平氏の言葉にもつながっていく。日本からも選手団とともに大勢の応援団が北京を訪れて、「同一个世界、同一个夢想」を共有できればいいなと願っている。
間近かに迫った北京オリンピックの大成功を祈りながら、1年にわたる『東眺西望』の雑文の筆を擱くことにしよう。ありがとうございました。 (北京放送元副編集長 李順然=文)
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