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黎承鳳さんは夫とともに、錦織とトゥチャ族の服装を結びつける工房を開いた |
湖北省南西部と湖南省北西部に境を接する酉水河の両岸に、古い歴史をもつトゥチャ(土家)族が代々集まり住んでいる。
酉水河畔の竜山県は湖南省側に位置する。県内の35万9700人のトゥチャ族のうち、トゥチャ錦織に精通する職人は4034人。ここには、錦織の織機が3814台あり、図案が撈車河一帯だけで200種類以上も伝わっている。
2005年、中国軽工業連合会および中国工芸美術学会は竜山県に「中国トゥチャ錦織の里」という栄誉ある称号を授けた。2006年、トゥチャ錦織は、最初の国家レベルの無形文化遺産リストに登録された。
西蘭カ普の伝説
トゥチャ族の錦織は、トゥチャ語で「西蘭カ普(シランカプ)」といい、漢語では「花模様の施された布団」を意味する。
言い伝えによれば、大昔のトゥチャ族の山村に、西蘭という少女がいた。聡明で美しい彼女は、生花を採集して織機の上に挿し、その花を見ながら五色の絹糸で手早く織機を操り、錦に花模様を織りこんだ。その錦織はきわめて美しく、「カ普」と呼ばれた。
西蘭はこの世のすべての花をカ普に織りこむことを決心した。お婆さんたちにさんざん尋ねてみたものの、誰もが「天下の花はすべてここに咲いている」と答えるのみであった。彼女は満足せず、会う人ごとに尋ねてまわった。
ようやくあるお爺さんから、「後山にある樹齢999年の赤い実のなる木は、昼間は目に見えないが、夜中になると真っ赤な花が咲く」という話を聞く。そこで彼女は深夜に起き出し、夜の暗さも寒さも恐れず後山に入り、その木の前に座り込み、夜毎待ち続けた。ついにある夜、その木が真っ赤な花でいっぱいになるのを見ることができた。彼女は大喜びで、一番美しい花を摘みとって織機の上に挿し、模様を織り始めた。
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錦を織る葉英さん(奥)と助手 | はからずも、彼女に嫉妬心を抱いていた食いしん坊で怠け者の兄嫁が、西蘭は夜毎に後山で恋人と逢引しており節操がないと父に告げ口する。酒に酔っていた父はそんな言いがかりを真実と思いこんでしまう。憤慨した父は西蘭の部屋に飛び込み、わけも聞かずに、そばにあったハサミを取り、西蘭に投げつけた。驚きの叫び声を上げて織機の上に倒れこんだ西蘭の血が錦にはね上がり、一面真っ赤な花が咲いた。
死んだ西蘭は小鳥になったのだという人もいる。毎年清明節の雨の後、山村へ飛んで帰ってきて、トゥチャ族の人々に畑を耕し、種をまくよう催促する。
人々に「陽雀(ホトトギス)」と呼ばれるこの鳥は、トゥチャ錦織の「陽雀花(ツツジの花)」の図案において優美な鳥形の模様にもなっている。西蘭はトゥチャ族の人々の心の錦織の女神と見なされており、トゥチャ錦織を「西蘭カ普」と呼ぶ。
トゥチャ族の女の子は7、8歳で母から技術を習いはじめる。嫁入りのとき、「西蘭カ普」の花模様の布団はもっとも貴重な嫁入り道具とされる。
錦織の里・洗車河
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自宅でもある葉英さんの錦織の工房。洗車河のほとりに位置する | 美しい伝説に促されるようにして、トゥチャ錦織の里――洗車河へ向けて出発した。「洗車」はトゥチャ語の「草河」の発音から来たもので、河の両側にたくさん青草が茂っているためにこの名前がついた。
錦織工芸坊の張光準総経理の案内で65キロほど車を走らせ、洗車河鎮に到着した。
道端の民家の門前に立てられた木の看板に、「葉英土家錦織工場」と書かれている。主人の葉英さんに招かれ、部屋を通り抜けて後ろの露台に出ると、2台の織機が並んでいた。トゥチャの吊脚楼(高床式の住居。土台を柱で支え、はしごで上り降りする)が洗車河のほとりに建てられている。澄みきった川水が柱の脚の下を流れてゆく。対岸の大きなガジュマルの木、吊脚楼、そして河辺で洗濯をする女性たちの姿に、美しい桃源郷へ導かれるような心持ちになる。
あたりを見回してみると、そう遠くないところに洗車河鎮の代表的な建築――風雨橋が見えた。
風雨橋は、18世紀に建てられた長さ85メートル、幅4メートルの橋で、高さ9メートルの2つの橋脚と3つの橋洞から成る。橋の上は、約1メートルほどの通路を残し、両側に小さな屋台がずらりと並んでいる。人の往来が盛んで、にぎやかな市をなしている。
1968年に生まれた葉英さんは、幼いころから織ることや刺繍することが好きであった。中学校を卒業すると故郷へ戻り、農業に従事し、錦を織り始めた。この地にはこんな言葉もある。「錦を織らない娘など、育てた甲斐がない。勉強しない息子など、ブタを育てたも同じこと」。
かつては農民の服装から布団まですべてが錦織で作られていたため、錦を織ることができるということは、女の子の最低限の技能であった。女の子たちは錦を織ることが好きで、自分が使うほか、市場で販売し、家計の足しにする。
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トゥチャ族の民家に残る伝統的なトゥチャ錦織(湖北恩施民族博物館の展示品) |
葉英さんは18歳のとき錦織の工場に就職し、たちまち中堅の技術者となった。やがてあちこちから招請され、錦織の指導をしに行くようになった。数年前に故郷へ戻り、自分の工場を立ち上げた。錦織の腕のよい親戚や友達を集め、加工してもらい、自身はデザインしたり、仕事を配分したり、技術面のチェックや販売を担当する。現在彼女の工場では百種類以上の製品を生産することができ、中国各地へ向けて販売している。
葉英さんが自身の作品と、昔のお年寄りたちによる作品のコレクションを見せてくれた。「西蘭カ普」はさまざまな色の絹糸と木綿糸を縦糸と横糸に、古い織機を使って手織りで作られたものである。
トゥチャの錦織はかつて服飾品や子ども用品、寝具などに用いられた。現在、近代的な紡織技術の導入にともない、トゥチャ錦織で作られた服装は次第に少なくなり、主に使われているのは布団の表と子供のスカートなどとなっている。
布団の表の錦織は3枚から成っている。1枚は幅が1尺(1メートルの3分の1)あまりあり、一般的に織機で作られる錦織はこの幅であるため、3枚をつなぐとちょうど布団の表になる。布団の表の中心には美しい花の模様が描かれ、主に動植物、幾何学模様、器物、文字がデザインされる。伝統的な図案は約200種類あまりに及ぶ。図案の名前と形には、8勾、18勾、48勾、犬の歯、猫の足跡、九輪の梅の花、ヘゴの花、テーブルなどの模様がある。いずれもトゥチャ族の生活環境の中から汲み取られたものであることが、ひと目見て分かる。図案の施された布団の表はほぼ、赤、藍、青の三色の絹糸を縦糸、さまざまな色の絹糸と木綿糸を横糸として、織機で縦横に織り込まれ、裏側から織られてゆく。
スカートは、1メートル四方の黒い手織り木綿や綿フランネルの三面のふちに、それぞれ約15センチの錦織が飾られている。家では赤ちゃんをくるむ産衣になり、外では赤ちゃんにかぶせるマントになる、祖母から孫への贈り物である。
機織の音の絶えない撈車河
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「拉拉渡」と呼ばれる渡し場 | 洗車河から川を遡り5キロほど進むと、丘を背に川を臨む、民間の古風で素朴な村落――撈車河が目に入る。黒い瓦で覆われた木造の家屋が並ぶ景色が、風景画のように美しい。ここには千戸余り、5000人以上の人が住んでいる。錦織の織れる人はそのうちの592人、織機は436台がある。史籍によると、かつては、「女は機織にいそしみ、そこかしこで織機の音が響く」にぎやかに繁栄した光景が広がっていたという。
現在でも、依然として「村落のそこかしこで鳥がさえずり、どの家でも織機の音が響いている」。
川の西側から東側へ渡るには、「拉拉渡」と俗称される渡し場を通らなくてはならない。渡し場に船頭はなく、自分で木造の舟に乗り、両岸に固定された鉄のロープを引っ張って、舟を向こう岸へと牽引して渡るのである。
ある農家に足を運ぶ。主人の劉代娥さんは今年56歳、中国文化部より錦織の大師として認定された、国家レベルの無形文化遺産たるすぐれた継承者である。
彼女の家の中庭は、古風で質朴であった。母屋の床板はきれいに磨かれ、中に入るには靴を脱がなくてはならない。部屋には古い家具とモダンなスピーカーが並んでいる。壁の装飾、子どもの揺りかご、そして夜具はいずれも錦織である。主人は錦織の模様の一部を切り取り、額縁に入れて壁に掛けている。なんともざん新な趣がある。
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劉代娥さんは毎日、家の中の錦織の仕事場で作業する | 主人夫婦には男女二人の子どもがいるが、いずれも出稼ぎに出ている。息子の嫁がまだ幼い孫とともに家に残っている。
大小二台の劉さんの織機が、木造の楼閣の一角に置かれている。周囲のすばらしい景色が、錦織職人に無上の美しいインスピレーションをもたらす。劉さんは手馴れた様子で織機を操り、美しい模様を織り出す。
我々の求めに応じて、重要な工芸の作業プロセスをいくつか見せてくれた。錦織の工芸は非常に繁雑で、長いこと見ていても、やはり理解することはできなかったけれども。
葉玉翠の物語と 「土家民俗錦織工芸坊」
竜山県に新しく造られた広場に、人目を引く「土家民俗錦織工芸坊」がある。中には大小さまざまな織機が並び、従業員たちが忙しく働いている。カウンターの中と外には、さまざまな錦織の商品が並べられている。店と工房が一体化し、開放的な運営で、美しい商品だけでなく、それを製作するプロセスも見られる。
工芸坊の主人は私たちを案内してくれた張光準さん。1950年生まれで、農民、工場労働者、機関の幹部を経験し、企業管理を勉強したこともある。1984年、錦織を心から愛する彼は、竜山土家錦織工場の工場長となった。
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竜山県トゥチャ錦織工芸坊の総経理・張光準さん | 張光準さんは壁にかかっているお婆さんの写真を指差して、竜山の錦織に巨大な貢献をした芸術大師――葉玉翠だと紹介してくれた。
葉玉翠は1908年に竜山県苗市郷の葉家寨に生まれた。200戸余りの村で、家ごとに織機があり、錦織をする女の子がいた。彼女は幼いころから、非凡なインスピレーションを見せた。9歳から錦織を学び始めた彼女は、頭がよくて手が器用であったため、15、6歳のときには彼女の錦織が周囲数十キロで有名になった。彼女の製品は郷の市に出して売るたびに、他人のものよりも高く売れた。とりわけ結婚式を挙げようとする人々は、こぞって彼女の手作りの「西蘭カ普」を欲しがった。
1957年、玉翠が工芸美術家の李昌鄂さんと協力し、共同で製作した『開発山区』というトゥチャ錦織の壁掛けが選ばれ、英国のロンドン国際博覧会に出品され、トゥチャ錦織が初めて世界に向けて紹介された。
1984年、竜山県民俗錦織工場が設立された。張光準工場長は葉玉翠を工場の終身顧問として招聘した。作業環境が改善され生活水準が向上したことで、彼女の芸術の青春が覚醒した。
数年間のうちに彼女は数多くの貴重な錦織の作品を生み出した。国家軽工業部、北京民族文化宮などの国家機関に芸術の逸品として収蔵されたものもあれば、日本や米国、カナダ、英国などの国へ展示され、紹介されたものもある。
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トゥチャ錦織の模様――蝶 | また、彼女は言葉だけでなく身をもって教育に励み、200人以上の錦織工芸の弟子を育てた。多くの弟子が錦織の優秀な後継者となった。弟子の中には人民大会堂の湖南庁に飾られている巨大な錦織の壁掛け『巴陵勝状・岳陽楼』の製作者もいる。錦織工場は数年間のうちに、彼女の指導のもと、150種以上のトゥチャ錦織を開発した。
葉玉翠が開発した製品をもとに、張光準さんは北京などの大都市へ足を運び、市場開拓に励んだ。たゆまぬ努力の結果、工場の規模も拡大し、生産した作品は何度も賞をもらうまでになった。北京の人民大会堂と湖南省の長沙駅に掛けられている巨大な作品もある。国家の贈り物として米国大統領にプレゼントされた作品もある。
1992年、葉玉翠は84歳でこの世を去り、織機に永遠の別れを告げた。ほどなくして、張光準さんも異動で錦織工場を離れた。
2006年、張光準さんは指導者としての職を辞し、再び民族錦織工芸坊を始めた。現在、百名の学生を募集し、その養成のための準備に忙しくしている。
錦織はトゥチャ族の誇りであり、このような伝統技術を商品化の波にのまれてしまうことなく、全国、そして世界に紹介したいというのが彼の思いである。
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