五台山での円仁(2)高僧との出会い

 

 

 

 

慈覚大師円仁円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた 

 

840年旧暦5月16日、「早朝東北に行くこと20里で大華厳寺(現在の顕通寺)に到着、庫裡に入って宿泊する」と円仁は書いている。円仁は、大華厳寺高僧にして天台座主の志遠和上に会った。志遠和上は、日本において天台宗が盛んであると聞いて非常に喜んだ。また804年、天台山に滞在していた最澄に会ったときのことを詳しく語った。

 

円仁は、日本から持参した天台宗に関する疑義30条を提出して回答を求めたが、志遠和上は、この疑義についてはすでに回答され、天台山入山を許された留学僧円載に渡された、と円仁に告げた。「志遠和上は、すでにこの疑義については天台山で決着をつけたと聞いている。よっていまこの疑義は受けとらない、と述べた」と円仁は書いている。

 

五台山の僧たちは、江南の天台山の状況について、驚くほどよく通じていた。このことは、仏教界内で情報交流が盛んであったことを物語っている。後に円仁は、天台山に提出された延暦寺疑義30条は回答されたと伝える公式文書の写しを見せられている。

 

写真①

敦煌莫高窟の壁画(写真①)

 

敦煌莫高窟第61窟の壁画は、単に五台山の五峰や諸寺を描いているだけではなく、円仁が訪れた当時の聖域における僧侶、巡礼、農夫などの生活ぶりも描いている。文殊菩薩が五台山の守護仏であったので、どの寺もお堂の一つに文殊菩薩像を安置していた。これは、大きな文殊菩薩像を描いた壁画部分を、故李承仙女史が模写した絵である。円仁は帰国後、五台山で見た建築物のいくつかを手本として、延暦寺内に堂宇を建てた。その一つが、ここで見た文殊堂を基本にした文殊楼である。

 

 

殊像寺の文殊菩薩像(写真②)

写真② 

円仁は文殊菩薩信仰に魅了された。智慧の象徴として、その像は釈尊像の左側に置かれることが多い。「日暮れに、僧数人とともに菩薩堂院にのぼり……文殊師利像を礼拝する。その容貌は荘厳にして端正厳格、他に比類がない。獅子に乗っている姿は柱間5間の堂内に満ちていた。その獅子には霊魂が宿り、……口から生じる潤いに乗って歩いているようである」

 

殊像寺にある文殊菩薩像は高さ9.87メートル、菩薩を象徴する獅子に乗っている。唐代から伝わる原像は清代に修復されたが、その際、頭部はそば粉を練って造ったといわれている。

 

言い伝えによると、仏師はこの材料を用いることによって、初めて五台山守護仏の真髄を表現することができたという。

 

顕通寺の住職(写真③)

 

顕通寺は今なお五台山界隈の諸寺の中で最も著名な寺である。ここで私は、五台山仏教協会名誉会長を務める喜矩住職(80歳)にお会いした。

 

師は12歳で僧籍に入って以来この地に住んでおられる。円仁像の写真の前に座って、「阿弥陀仏」の名を繰りかえし唱える「念仏」が、円仁と、ひいては日本仏教に与えた影響について語ってくれた。円仁は、このほかに曼荼羅の解釈、天台独特の法要、「台密声明」と呼ばれる音楽的な響きを持つ読経などについても学び、すべてを日本に伝えた。

 

塔院寺の白塔(写真④)

 

円仁は、逗留している寺の廻廊に立って、雄大な風景を楽しんだ。五台山の青空の美しさについて、「天の色は美しく晴れ、空の色は青く澄み渡って一点の翳りもない」と書いている。また、ある塔について、これはインドの阿育(あそか)王が造ったものだと述べている。

 

この写真の白塔は後の年代のものだが、五台山仏教界の中心を象徴するものとなっている。

 

写真③   写真④  写真⑤

 

尼僧、供養食事会(写真⑤)

 

円仁は、旧暦6月8日のくだりで、「勅使は、勅令により供養食事会を催し、1000人の僧に供した」と書いている。円仁の日記には、聖職者への感謝のしるしとして施主によって催される、このような供養の食事会についての記述がよく見られる。これは当時としては、ごくありふれた寄進の風習だった。聖職者たちはまず読経し、次いで寄進された食物を受けた。この写真は、施主による同様の食事会に集まった尼僧たちである。

 

千僧斎(写真⑥)

 

2002年5月、非常に珍しい「千僧斎」が顕通寺で催された。千僧斎とは、1000人の僧に供される供養の食事会である。古式に則り、信仰を示す行為として精進料理が献じられる。この日の施主は有名な映画俳優であった。五台山のすべての寺から千人を超す僧侶・尼僧が、顕通寺本堂の中庭に参集した。なかには遠くチベットから訪れた宗教指導者の姿もあった。

写真⑥ 写真⑦ 

 

顕通寺の食堂(写真⑦)

 

本堂での読経が終わると、僧侶・尼僧全員が並んで無料の精進料理を供された。まず一人の僧が木魚を叩き、もう一人が青銅の銅鑼を打って、五観堂での食事会に参会者を導いた。読経の後、それぞれ二椀の食物を食べる。一つの椀には米飯、もう一つの椀には野菜と豆腐が入っていた。

写真⑧ 写真⑨

托鉢用の鉢(写真⑧)

 

「勅使が寺に来た……常の例として毎年勅令により衣鉢A香、茶などが送られ……(五台山の)十二大寺に贈られる」と円仁日記にある。塔院寺経蔵二階の廻廊に托鉢用の鉢がたくさん積み上げてあった。鉢の山はなんとも異様な光景であった!

 

仏教経典(写真⑨)

 

 塔院寺の転輪蔵には10万冊以上の経典が収められている。常尚和上は、この類例のない見事な書庫から、宝物の古文書を数冊見てもよいと、私に許可してくれた。五台山での円仁の重要な使命の一つは、経典、特に天台教義に関する典籍を書写して日本に持ち帰ることであった。

 

写真⑩ 

回転式の経蔵(写真⑩)

 

五台山で二層回転式の木造経蔵を持っているのは塔院寺だけだ。経蔵には大量の稀覯の経籍が収められている。円仁は、これに対応するような経蔵が金剛窟にあったと述べている。これは、中国において、この独特の様式の構造物について言及した初めての記述である。「岩窟の戸口の楼上に転輪蔵あり、六角形に造られている」

 

 

 

 


阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。

人民中国インターネット版

 

 

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