春秋戦国時代には燕の首都で薊(けい)と呼ばれる。この時代のこの地方は国都の洛陽からは遠く離れた辺境であり、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵攻に悩まされていた。秦・漢時代には北平(ほくへい)と呼ばれるが、満州地方の開発が進み、高句麗などの国が立つと戦略上、また商業上でも重要な拠点として重要視されるようになった。また、北京市に隣接する、河北省涿郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷で知られるとともに隋の煬帝が築いた大運河の北の起点とされている。 唐滅亡後に五代十国時代の騒乱に入ると、内モンゴルから南下してきた遼帝国は五代の後晋に兵力を貸した事でこの都市を含んだ燕雲十六州の割譲を受けた。遼はこの都市を副都の一つ南京とした。その後、遼が金に滅ぼされると金はここに遷都して中都となり、更に金が元に滅ぼされると大都となり首都とされた。
その後、明の朱元璋が元を追い落とした後は元の北平の名前に戻され、首都は南京に置かれるが、この地の王に封建された朱棣(後の永楽帝)は1402年ここから建文帝に対して反乱を起こし、自ら皇帝になり遷都してこの地を北京とした。辛亥革命後も中華民国は北京を首都としたが、南京を首都とした蒋介石の中国国民党政権は1928年6月15日、直隷省を河北省、北京を北平(ほくへい)と改称した。1937年から1945年まで続いた日本軍占領期は北京の名称が用いられ(公式には1940年に改名)、日本の敗戦によって北平に復した。1949年10月1日の中華人民共和国成立によって北京の名称が復活した。
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