異国の風土や文化と親しむことは楽しい。一つの土地で長く暮らせば、その風土や慣習、文化が知識から味わいを引き出し、その味わいの豊かさと深みに誘い込んでくれる。
「漬け物」から見た日本
「漬け物」にまつわるささやかなエピソードがある。
日本を初めて訪れたのは、ちょうど桜が満開の4月のことだった。到着の翌日、夫とともに、富山の長慶寺で催される桜の鑑賞会に足を運んだ。花見の雅やかさはいうまでもなくすばらしいものであったが、美しい花見弁当の最後に漬け物の小皿が運ばれてきたことに、私は戸惑いを覚えた。中国人なら、漬け物でお客様をもてなすことなどありえないからだ。それでも私は、その素朴で個性ある小皿に盛りつけられた、漬け具合のちょうど良い、つやつやとしたきゅうりや茄子と大根の盛り合わせを喜んでご馳走になった。その浅漬けのさっぱりとした甘美は、私の舌に忘れられない記憶を残してくれた。
その後たびたび、贈り物で漬け物をいただくことがあった。京都の千枚漬、奈良漬、福島の長久保の紫蘇巻などで、夏の盛りや師走のころには、ほかの地域で暮らす友人が一箱二箱と送ってきてくれることもあった。私は大変興味をかきたてられた。日本人はどうしてこんなにも漬け物が好きなのだろう、と。
日本全国各地を訪れ、いたるところでさまざまな漬け物屋を目にするうちに、私も日本人のようにどこかへ行くたびにその地方の漬け物を買い、友人たちに贈るようになった。「郷に入っては郷に従え」である。
日本に長くいると、日本人の友人宅にお邪魔することも多い。日本人は手土産の漬け物を受け取ると、すぐにその晩の食卓に並べる。家族全員で食卓を囲み、貰った漬け物の産地やお店の歴史などをひとしきり話しながら食事をする。漬け物を贈ってくれた人に感謝の気持ちをこめて。その和やかな雰囲気は、口の中に広がるさっぱりとした、かつ豊かな味わいのようであり、「漬け物を贈る」というささやかなことの裏にあるその自然な厚い人情に、つくづく感動させられる。
「漬け物を贈る」というのは、本来取り上げていうまでもないささやかなことかもしれないが、そこにはほかの物事にも通ずる道理がある。
日本社会や日本文化、日本人の心理は、ざっと本で読んだり、短い滞在でさっと見たりしたところで簡単に理解できるものではない。その環境に身を置き生活しながら少しずつ感じ取るのはもちろん、本に書かれていることと個人の頭の中の日本や身の回りの日本と結びつけて確認し、その認識をさらに深めるというプロセスが不可欠である。さもなくば、目に映る日本も書かれた日本も、漬物の「味」を色や皿の形といった見た目だけで決めつけてしまうような、表面的に理解したもので終わってしまう。けれども、色や皿の形といったものは常に同じとは限らない。
日本の中国研究と中国の日本研究
深い理解から出発する研究は、的確かつ深く掘り下げたものとなる。研究の究極の境地は、お互いの文化間の充実、融合である。けれどまだ私たちは発展の道を歩んでいる途中であり、研究の目的はまず自国の利益を図ることにある。
周知のように、日本は古代から当時先進的であった中国の文化を漢籍から吸収し、留学生を派遣するなどして、中国文化を学ぶことに大いに力を入れてきた。藤原佐世が『日本国見在書目録』に記録した漢籍は、1579部、1万6790巻にも及んでいる。これが編纂されたのはなんと九世紀、それからさらに千年余りにわたって、日本人は一貫して中国から学び続け、努力を積み重ねることで、日本の中国研究を世界における漢学研究の重鎮とならしめた。政治制度から文化風俗、語言文学、物産、ひいては遊びまで、数多くの中国に関する研究書は、日本人が中国を理解するためのさまざまなルートを広げていった事を物語っている。
『孫子』に曰く、「彼を知り己を知れば、百戦して 殆からず」。この島国がかなりの期間、大陸とのやり取りにおいて常に優位を制していたことは、明治維新後、日本人が迅速に謙遜な態度で西洋に学んだことだけでなく、中国に対する十分な理解や研究とも深く関係があるはずだ。
その一方で、中国人の日本に対する理解や研究は、現在に至るまで満足のいくレベルには達していないとしか言いようのないものに留まっている。多くの重要な分野にまだ広大な空白が残され、誤読や表面的に過ぎない解釈、自分に都合のよい立場で日本を解読、あるいは誤読した上での一方的な間違った分析をするといったような問題が、依然として少なからず存在している。
1900年前後に日本留学ブームという現象が起こったものの、中国人の日本留学の重点は、隣国としての日本を重視し、研究することに置かれたものではなかった。張之洞(1837~1909年)が「遊学之国、西洋ハ東洋ニ如カズ。一ニ近シハ費ヲ省キ、多ク遣ワスヲ可トス。一ニ華ヨリ近キ、考察スルニ易シ。一ニ東文ハ中文ニ近キ、通暁スルニ易シ。一ニ西書ハ甚ダ繁ナリ、凡ソ西学ノ切ラザルヲ要スルハ、東人スデニ節ヲ削リテ之ヲ酌ミテ改ムル。中東ノ情勢風俗ハ相近キ、倣ヒ行ウモ易シ。事半バニシテ功倍ナリ」と 『勧学篇』で述べたような理由によるものであろう。
当時の中国は、日本を通してできるだけ多く、速く、うまく、無駄を省いて西洋の知識を学ぶことを求めた。日本を自身の真面目な研究対象として考えた人は、ごくわずかにすぎなかった。
「知日文叢」という収穫
ところが、1980年代以降、状況は大きく変わった。多くの学生が第二の日本留学ブームに乗って、日本に渡った。学業を修めた後、帰国して就職した者もあれば、日本に根を下ろし、新華僑となった者もある。こうした留学生の中から、新しい世代の学者が続々と現れた。「東亜人文・知日文叢」の著者たちもこの新しい世代の学者である。彼らにははっきりした特徴がある。まず、日本における滞在期間が長い。長い人で20年、短い人でも数年以上であり、現地における豊富な生活経験がある。二つ目に、ほとんどが日本に行く前に学術的な基礎をしっかりと築いている。専門的な知識を有し、世界や問題に対して独自の視点を持っている。三つ目に、ほとんどが日本そのものに研究の焦点を定めている。「深く理解した」日本に対し、改めて史料を読み考えるうちに、ディテールの日本をより深いレベルで研究するようになった。
日本には「石の上にも三年」という諺があるが、まさに彼らは現在、収穫の時期を迎えている。その果実を摘み取ってまとめて社会に示すことは、非常に有意義なことである。
「東亜人文」は、「清華東アジア文化講座」が編集するシリーズである。このシリーズには学術研究、典籍資料、文化系翻訳書などが含まれ、その中の「知日文叢」は日本に関する文化エッセイ集となっている。
2004年に創設された「清華東アジア文化講座」は、さまざまな角度から東アジアの問題を討論することを心がけてきた。世界経済の地域化の発展と中国文化の復興にともない、新しい世界情勢における東アジアの問題を新たに考え直すことは、「清華東アジア文化講座」が探索に力を注いでいる方向である。
いかに歴史を取り扱うか、いかに今日に対応するか、いかに未来を考えるか。中日間に存在するこれらの大きな課題は、必ずしも「知日文叢」というシリーズが解決できるものではないが、このシリーズの編集と出版を通じて、これらの課題を真剣に考えようとする読者のみなさんに、なんらかの新しい視点を提供し、参考にしていただけるようであれば幸いである。(中国社会科学院外国文学研究所副教授・「東アジア人文・知日文叢」 主編 秦嵐)
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