「海亀」の起業家 方沛宇さん
「北京のシリコンバレー」と言われ、IT産業が軒を連ねる中関村。その一角の広いオフィスに、「北京華科力揚科技有限公司」がある。
「北京華科力揚科技有限公司」の総裁、方沛宇さん |
「『改革・開放』がなかったら、今の自分は考えられません。多分、農村で働いていたでしょう。私たち一族は、『改革・開放』の受益者です」と方さんはしみじみと言った。
苦しかった「下放」
方さん一家の受難は、1957年の反右派闘争から始まった。吉林省長春の東北師範大学で数学の教授をしていた父は「右派分子」とされ、「文化大革命」が始まると69年から黒竜江省の農村に「下放」させられた。
その時、方さんは3歳。松花江の辺りの、樹木が1本も生えていない貧しい農村だった。上二人の兄は、別の農村や小さな工場で労働し、一家はバラバラになった。
3年後、父は偶然、吉林省四平市にある四平師範学院(現在の吉林師範大学)の校長に見出され、教員として招かれた。方さんも四平市に移り住んだが、当時、そこには小学校がなかった。8歳になって、新しくできた小学校に入学した。4年生から飛び級し、四平第四中学に入学した。
77年、中国では、長い間中断していた大学の統一入試が復活した。次兄と三兄がこの年、入試に合格した。翌年、長兄も合格。長兄はすでに結婚し、3人の子どもがいた。
方さんも83年、高校2年生で、四平市からただ1人、北京大学に合格した。今と違って、当時の大学生はすべてが無料だった。だから一家から4人の大学生を出してもやっていけた。
勉強しても未来が見えない
方さんは北京大学で力学を専攻した。勉強の合間には、武術やダンスを楽しんだり、北京周辺を旅行したりした。
87年に卒業。当時は、国が就職先を決めた。それを「分配」という。方さんは、大連工業大学に助手として「分配」された。月給は66元。そのころ、中学時代の同級生だった妻と結婚した。
生活は苦しかった。何よりも、勉強しても未来が見えてこなかった。「海外に留学したい」と真剣に考え始めた。日本の琉球大学なら、奨学金がもらえることが分かった。
90年、方さんは琉球大学理学部大学院の修士課程に留学した。沖縄は温暖で、海が大好きだった方さんはたちまち惚れ込んだ。
修士課程を終え、もう少し日本を知りたいと思った。92年に東京へ行き、東芝の府中工場に就職した。システム開発が仕事だった。勉強もしたし、猛烈に働いた。残業は多い時で月200時間を超えた。東京・八王子のアパートで、長男が生まれた。
神戸大震災が転機に
95年1月17日、阪神・淡路大地震が起こった。その惨状をテレビで見た。耐震建築に興味を持ち、会社をやめて、東京大学大学院の建築の博士課程に入った。2001年には博士号を取得。
その間の2000年、日本人が投資してくれ、東京でソフトウェアー開発の会社を立ち上げた。会社は順調に発展した。しかし、日本で外国人が会社を経営するには、さまざまな困難があった。事務所を借りるのも難しかった。中国から呼び寄せた従業員の下宿を探すのも大変だった。
「いっそのこと、日本籍を取得しようか」と思った。だが法務省は「家族全員で帰化しなければ認めない」という。しかし「それでは中国に帰れなくなる」とやめた。
一家を挙げて帰国
2003年、北京にも会社を立ち上げた。最初は日本人に経営管理を任せていたが、中国人従業員の管理は難しく、結局、一家を挙げて帰国することになった。
だが、小学3年になっていた長男が「いやだ」と言い張った。「日本の学校には友だちがいっぱいいるし、慣れているから」だ。「半分は説得、半分は強制」で長男を納得させた。
従業員4人から出発した北京の会社はいま、60人になった。ポータブル・メディア・プレーヤーの設計などで、年商は1000万元近い。
今、中国では、企業家も共産党員になることができる。方さんは「私も党員になれるとは思いますが、政治にはあまり興味がないんです」という。
とはいえ、中国がこれからも「改革・開放」を続け、さらに豊かになり、国力が強くなることを、方さんは疑ってはいない。「もう二度と、『文化大革命』のようなことは起こらないでしょう。歴史の車輪は逆戻りできませんから」と方さんは言った。
メモ |
・中国からの公費留学生 |
1996年 2049人 | |
2000年 3000人以上 | |
2005年 7000人以上 | |
2008年(計画) 1万2000人(うち院生は6000人) | |
2007年9月までに、中国から派遣された各種の留学生は合計3万4742人。 | |
※期間が満了して帰国すべき留学生は2万8230人。実際に帰国したのは2万7524人。帰国率97.5%。 |
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