農村から出た学者 陳平原さん 大学入試復活が運命を変えた

 

陳平原教授は北京大学中国言語・文学部の博士指導教官であり、教育部(教育省)の「長江学者奨励計画」の特別招聘教授である。有名な中国現代文学研究家でもある彼は、同じ学部で教授をしている奥さんの夏暁虹さんといっしょに、国内外の8人の博士課程の院生を指導している。

 

辛酸をなめた若いころ

 

北京大学の修士課程のクラス
「私の一生は、2つの時期に分けられます。苦しかった青少年時代もあれば、『改革・開放』の幸運に恵まれた時代でもあります」と陳さんは語る。

 

「文化大革命」のとき、広東省汕頭市の農業学校で教員を務めていた陳さんの両親は批判され、「5・7幹部学校」へ下放された。「5・7幹部学校」とは毛沢東主席の「5・7指示」により設立された農場で、幹部や知識人を労働改造する場所であった。1969年、中学を卒業した陳さんは故郷の広東省の潮州に帰った。潮州は耕地が少なく、人口が多いので、人々は南洋へ出稼ぎに行く。一家の主人が出稼ぎに行ったあと、一族は、残された家を守る習慣がある。万一、外地で災難に遭い帰郷しても、逗留する家があるようにするためだ。陳さんの家も故郷に残されていたのだ。

 

陳さんはいまでも、初めて労働に出たときの光景を覚えている。村民たちは鋤や肥料を担ぎ、山を越えて3、4キロも離れた畑に行き、耕作する。15歳の陳さんは、生産隊の隊長から「お前は鋤を担いで行くだけでいいよ」と言われたが、鋤2本を担いで3キロを歩いただけで、ぶっ倒れそうになってしまった。

 

両親の薫陶もあって、陳さんの最大の楽しみは読書であった。毎日、労働から帰ると読書に没頭し、中国や世界の文学名著に陶酔した。故郷に戻って1年足らずで、村の人々は彼を小学校の国語の先生に推した。

 

身体検査で心配した入試

 

2007年の全国統一入試

1977年8月、復帰した鄧小平氏はすぐに、大学入試制度を再開するよう提言した。そして前例を破ってこの年の12月、全国大学統一入学試験を行うことになった。このニュースが伝わると人々はお互いに知らせ合い、農村で労働していた「知識青年」たちは、欣喜雀躍した。

 

陳さんもこのニュースを聞くと、ただちに受験を申し込んだ。試験はうまくいった。しかし、試験後の身体検査で、困ったことが起きた。彼はもともと体が小さく、身体検査の日、朝食を食べなかったので、体重は99斤(49.5キロ)しかなかった。だから男子の最低の体重は100斤だと聞いたとき、彼はサツマイモを2個食べてから身体検査を受ければよかったと悔やみ、不合格になるのではと恐れた。

 

たったの1斤のために、陳さん一家は飯も喉に通らぬほど心配した。しかし幸いなことに、彼が出願した中山大学の中国言語・文学部では、工学部のように厳しく体力を要求されなかったため、体重は大きな障害にはならなかった。

 

陳さんは大学に入った後、彼が入試で書いた作文が広東人民ラジオ局で放送され、『人民日報』にも掲載されたことを知った。

 

猛勉強して博士に

 

陳さんのような新時代の列車に間に合った幸運児たちは、「文革」がもたらした知識の空白を埋めるために、大学ではむさぼるように勉強した。中国の古典から西洋の古典まで、さらに当時はやっていた「実存主義」なども読み、貪欲なほど「知的栄養」を補給した。

 

そのときの大学生活の断片を、陳さんはいまでも鮮明に覚えている。『アンナ・カレーニナ』を買うために、夜中に本屋の前で長い列をつくって並んだこと、日曜日に、にぎやかな通りで自ら編集・印刷した文学雑誌『紅豆』を大声で売ったこと……。

 

陳さんは中山大学で、学部と修士課程を終え、さらに北京大学に進み、著名な王瑶教授に師事して中国現代文学を専攻した。3年後、彼は北京大学で初めての文学博士となった。この3年間、彼は銭理群、黄子平といった人たちとともに、大胆に思想を解放し、新しい理念と新しい方法を用いて「20世紀の中国文学」を提起し、創造的な研究を行ない、学界や知識人たちの注目を浴びた。

 

募集拡大の弊害も

 

「改革・開放」の30年来、中国の大学事業は飛躍的に発展した。1978年には大学・大学院の学生・院生は85万6000人だったが、2006年には2300万人に拡大した。そのうち院生は100万人を超えた。

 

しかし、博士課程の院生を指導している陳さんは、今日の大学による学生募集拡大と院生教育について、独自の考えを持っている。現在、多くの大学が、教育の重点を学部での教育から院生の教育へと切り替えている。

 

この転換はもとより、近代化建設や科学文化の発展の必要性に基づくものだが、現代社会の学歴崇拝や人材の浪費とも無関係ではない。雇用する側は、高学歴を要求するばかりでなく、どの大学の学部や修士、博士課程を出たかをチェックし、北京大学や清華大学などの名門大学であるかどうかを徹底的に調べつくす。

 

「学歴崇拝は院生教育の氾濫をもたらし、間接的に学術レベルの低下をも招いてしまった」と陳さんは言う。最近、院生教育の規則や制度が次第に整ってきたが、陳さんは、規則や制度を固守しすぎると、特殊な人材の学術的な創造力を抑圧してしまうと、強調している。

 

メモ

1999年、大学の学生募集数は157万人。前年比50万人増。その後、大学の学生募集数は年ごとに拡大し、2006年には、2273の大学で500万人以上を募集した。

新中国が成立してから1985年までは、大学の学費は免除されていた。1989年から少しだけ学費を徴収し始めた。その後、次第に学費の額を引き上げ、現在、北京市大学の学費は年間4200元~6000元(約6万3000円~9万円)である。  

新中国成立後、大学卒業生は国によって仕事を配分された。2000年から、国による仕事の分配をやめ、卒業生が自主的に職業を選べるようになった。その結果、就職は大学卒業生の大きな難題となった。

 

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