昨年の暮れ、紹興酒で有名な浙江省紹興市で、「醤文化」に関する国際フォーラムが開かれました。「醤」とは、味噌や醤油、酢などの醗酵調味料の総称で、中国や日本、アジア各地に広く分布し、日常生活に欠かせない食品となっています。
「醤文化」の国際フォーラムが開かれたのはこれが初めてで、中国だけでなく日本や韓国、米国などから約300人の研究者が参加し、さまざまな角度から「醤」について論じ合いました。私もスピーカーの一人として、「中日の醤文化の違いと同じ」について、次のような内容の発表を行いました。
幅広い共通認識
中国と日本とは一衣帯水の近隣であり、長い文化交流の歴史があります。ですから両国は、食文化の共通点がたくさんあり、「醤」の文化もその例外ではありません。
例えば「醤」の原料は基本的に同じであり、医と食は源が同じで、薬と膳の効用は同じであると考えています。また「醤文化」に対する共通の価値観を持っています。
とはいえ、中国と日本はやはり2つの国ですし、歴史や環境、食生活の習慣において大きな差があります。ですから、「醤文化」といっても、まったく同じというわけでもありません。あらゆる文化はその国の民衆の必要性に基づいて自ら創造されるものです。あるいは外から吸収してそれが変化し、発展していくものなのです。
「醤」の起源は
中国の「醤」は、中国大陸に源を発し、すでに3000年の歴史を持っています。この説に対しての論争はありません。しかし日本の「醤」の起源については、さまざまな説があり、定説はありません。が、だいたい5つの説にまとめることができます。
第1は、中国渡来説です。唐の鑑真和上が日本へ渡ったときに携えてきたという説です。「醤」の一種である「味噌」は、語源を遡ると、中国語の「末酱」の発音に近いことというのです。
第2は本土説です。「醤」は日本列島の先住民の製塩技術に始まるとする説です。紀元前およそ一世紀、塩で穀物を発酵させ、穀物の「醤」をつくったというのです。
3つ目は朝鮮半島経由説です。この説によると、古代中国人がつくった「醤」や納豆のような「豆豉」とその製法は、大和朝廷時代に朝鮮半島を経て日本に伝来したというのです。
4つ目は朝鮮伝来説です。朝鮮の味噌や製法技術が直接、日本に伝わったという説です。日本語の「味噌」の語源は、朝鮮語の「密祖(miso)」だというのです。
5つ目は渤海国伝来説です。渤海国は唐から郡王に封じられ、日本との往来や貿易は唐に劣らぬほど盛んに行なわれていました。『新唐書・渤海伝』には、中原(中国の中央)の人が「柵城之豉」と言っていると記載されています。「柵城」は渤海国の「東京竜原府」であり、「豉」とは「醤」の元祖で、渤海国の人々の食生活に欠かせない必需品だったと思われます。それが渤海国の人の手で日本に伝えられたというのです。
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