稲作文化の奇跡雲南・元陽県のハニ族の棚田 

 

芸術者を感嘆させてやまない「元陽棚田」の美しい線

  長年、ハニ(哈尼)族は棚田で稲作を営み、暮らしてきた。衣食住、生産労働、祝い事や祭祀、宗教や信仰、哲学や思想など、生活のあらゆる方面に棚田文化がしっかりと刻み込まれている。棚田の稲作文化は、すでにハニ族文化の根源となったと言ってよいだろう。

 

雲南省紅河地区にあるハニ族の棚田は、国内外のカメラマンたちの絶好の被写体として人々の目に触れるようになり、世界中に名を馳せた。

 

朝靄に包まれるハニ族の村 

 この地の棚田が「この世の奇跡」とたたえられるのは、5つの理由がある。一、段が多いこと。坂の斜面に連綿と連なる畑は、3000段以上に及ぶ。二、規模が大きいこと。棚田がもっとも集中する地区の元陽県の棚田の面積だけでも、20万ムー(1ムーは6.667アール)に達する。三、歴史が長いこと。この地の棚田は、控えめに見ても明の中期には一定の規模が形成され、少なくとも500年以上の歴史を有するという。四、景色が美しいこと。棚田と一体化した山や雲海、日の出と夕暮れ、また山村風景などが、独自の美しさを見せる。五、深みがあること。棚田は人文景観が自然景観と融合したものであるとして、海外から訪れる人々に「大地の芸術」とたたえられている。

 

さらに、棚田を万里の長城と並べて「人間が創り上げた奇跡」と主張する学者もいる。この二つの違いは、万里の長城は庶民が強制されて完成させたものであるが、棚田は人々が積極的に建設し、千年という月日を経て自然にこのような規模となったという点にある。

 

独特な水利工事

 

秋の刈り入れの後、土を耕すのに忙しいハニ族の男性

   紅河地区ハニ族イ(彝)族自治州にある棚田は、巨大な規模を有し、紅河南岸の紅河、元陽、緑春、金平などのいくつかの県に及んでいる。中でも元陽県は、一番低いところで海抜144メートル、一番高いところで海抜2939.6メートルという高低差の大きな険しい山地である。元陽のハニ族の棚田は主に、壩達の約1万4000ムー、老虎嘴の約6000ムー、多依樹の約1万ムーの3つの地域に分布する。いずれも、現在世界遺産に申請準備中の重点保護区となっている。

 

元陽県は高温多雨の亜熱帯モンスーン気候に属し、年間平均気温15度前後と一年中春のように温暖で、年間平均降水量1397.6ミリと水も豊富である。県内の6万3958.4ヘクタールの森林は、いわば巨大な天然貯水池である。高い山から流れ落ちる無数のせせらぎや湧き出る泉は、この地の棚田、そして人々や家畜に命の水を与えている。「山が高ければ高いほど、水が豊富」なのである。

 

元陽県が位置する哀牢山には、7つの民族が暮らしている。海抜144~600メートルの地帯には主にダイ(傣)族、600~1000メートルの地帯にはチワン(壮)族、1000~1400メートルの地帯にはイ族、1400~2000メートルの地帯にはハニ族、2000メートル以上には主にミャオ(苗)族とヤオ(瑶)族が住んでいる。漢族はほとんどが県城や鎮に、あるいは道路の沿線に住んでいる。

 

ハニ族が暮らす地帯は、水稲の生長に適している。もともと青海・チベット高原に集まり住んでいたが、牧草を追いかけてあちこちに移っていったハニ族の先祖たちは、長い間移動しているうちに、1200年ほど前の隋・唐代から哀牢山地区に定住し、棚田を開墾し、水稲を栽培するようになった。長い歳月をかけて、ハニ族がほかの民族と力をあわせて引いた約6000本の用水路は、まるで銀色の帯のように、山々の棚田と村々をつないでいる。

 

このように、高い山の森林が育んだ清流は、さまざまな民族の人々が引いた新旧の用水路に沿って、村へ棚田へと流れ、高所から低所へと自然に流れつつ、河川に合流し、最後は海にそそぎこんでゆく。

 

 棚田造りに工夫を

 

あぜを補修するハニ族の村民。あぜの補修は農閑期の大切な仕事である

    まるで絵のような棚田の中、長い柄のシャベルを用いてあぜの除草作業をしているハニ族の男性の姿が見える。

 

この美しい棚田は、いかにして開墾されたのだろうか。

 

70歳を超えているというこのハニ族の許さんは、45年前、弟と共に一帯の荒れた勾配を開墾し、棚田を作り始めたころのことを詳しく語ってくれた。

 

棚田造りに最適な季節は、旧暦の3月ごろである。この時期は気候が穏やかで、土質も乾燥するため、どこから水が滲みでているかがはっきりと見え、あぜを補強やしたり穴をふさいだりするのにも都合が良い。

 

許氏兄弟はまず、棚田の開墾を地形の選定から始めた。水源があり、勾配の適度な斜面に場所を定める。

 

次に、斜面の両端に竹竿を一本ずつ立て、棕櫚の葉で綯った長い縄を竿の上に結び、地面に水平に引く。その縄を基準にして棚田の水平を維持する。

 

ハニ族の男性は棚田と一生付き合ってゆく
  第三段階として、鍬で水平の台地を耕す。

 

第四段階として、溝(溝渠)を掘り、上の水源とつなげ、棚田に水を引く。人々はこの水を引く溝を命綱とみなしている。受け継がれてきた規則にしたがって、農家の棚田の数に基づいて、相談の上でそれぞれの用水量が決められる。

 

最後は、泥をこね、鍬で台地の縁に沿ってあぜを造る。二三日して、泥が十分に乾燥した後、さらにあぜを補強する。

 

一面の棚田を造り終わると、兄弟二人はさらに台地の下へ下へと開墾を続ける。でこぼこの多い斜面を選んだため、掘り出した土だけでは棚田としてならすことができず、石を運んできて斜面の底部から並べてゆく。さらに大量の水を流して斜面の上のほうにある土や泥などを押し流し、窪みに堆積させる。台地は日や雨に晒されていくうちに、土が自然に沈下し、安定した基礎となる。

 

二人は掘り出した土の塊を何層も積み重ねるようにかぶせながら、あぜをつくってゆく。土をかぶせるたびに、足で固く踏みならす。山の形に従って上から順に下へとつくってゆく棚田は、少なくとも十数段、多くは数十段になり、数百段規模のものもある。緩やかな勾配ではあぜの高さは平均1メートルほどだが、切り立った急勾配では5、6メートルに達する。

こんなごく簡単な道具で、ハニ族の人々は稲作文化の奇跡を生んだ 

  水や土や肥料が棚田から流失しないよう留めておくためにも、丈夫なあぜ造りは高い技術と手間のかかる作業である。さらに、毎年あぜに生える雑草も取り除かなければならない。ネズミの穴を見つけたらきちんとふさぎ、崩れたり倒れたりしているところがあればただちに補強し、あぜを頑丈かつ美しく保つために工夫を重ねなくてはならない。

 

棚田造りをしている間、許氏兄弟は山に建てた小屋で寝泊りし、朝から晩まで働きづめになり、棚田造りが完成するまでは家には帰らない。年末には、新たに開墾された六面の棚田が斜面にその姿を現す。翌年、稲の収穫が終わると、二人は早速新しい棚田をならし、取り除いたあぜの雑草を水田に浸して発酵させる。さらに泥をこね、あぜを補強する。

 

二人は、素足であぜの内側の土を固く踏みならし、さらに泥を掘り出してあぜを高く積み上げてから再びならし、きれいに整える。あぜ造りが完成したら、引き続き、次の場所の開墾に取り掛かる。

 

こうして、2年間あまりの苦労の末、2人は16面の棚田を開墾した。

 

ハニ族の祭りと棚田の農作


 祭司が村の男たちを率いて「竜樹」の前で神様を祭る

元陽県箐口村は、旧県城の新街鎮から南へ6キロ離れたところにある150戸、800余人が暮らすハニ族の村である。ハニ族の伝統的な風景が少なくないため民俗村に認定され、観光客がハニ族の暮らしを理解するための生きた博物館となっている。

 

石畳の道に沿って村に入ると、すばらしい棚田の風景を楽しめるだけでなく、ハニ族の「蘑菇房(キノコの家の意。レンガを積み上げた壁に、茅葺き屋根の住宅。形がキノコに見えるため)」、神林(神樹のある林)、用水路、水の碓部屋などの生産、生活施設や、ハニ族の服装や飾り、犂、マグワ、機織り機などの道具を見学することもできる。

 

村のほとりにある神林で、村人たちは「寨神」(村の神様)の祭祀を取り行っている。ハニ族のすべての村には神林と神樹があり、それぞれ「風水林」と「寨神」と見なされ、決して損ねるようなことがあってはならないと考えられている。毎年「10月年祭り(旧暦の10月を1年の始まりとする)」の後に、村の安定と保護を願って寨神に祈りを捧げる。

 

祭祀儀式の主催を担当する祭司とその助手は、豚を屠り、肉を切り分け、大きな鍋に入れて煮込む。茶、酒、豚肉をそれぞれ三碗、さらに料理した鶏、豚の頭、クチナシの汁で黄色に染めたもち米のご飯を供物台に並べ、「竜樹」の下に運ぶ。また、祭司が各家の男性代表を率いて、供物を捧げ、拝む。祭祀が終わると、祭司が供物を分け、みんなで食べる。これを「竜肉」を食すといい、すべての家族や祖先が神様の保護を受けられることを表すという。

 

菁口村では、村民が観光客のために歌い、踊る

豊かな祭り文化を誇るハニ族の祭日は、数え切れないほど多い。しかし、気をつけてみると、祭日の核心は、ほとんどが棚田の農作にかかわる祭礼である。また、その時期は農作の節気交替期にあたり、節気及び農作のプロセスを提示するという二重の役割がある。

 

例えば、「十月年祭り」は年末年始の印であり、秋の取り入れが終わり、農閑期に入ることを示す。ハニ族の暦法では、旧暦10月は1年の始まりであり、漢族の春節(旧正月)に相当し、ハニ族にとってもっとも大切な祭日である。この祭日の主題は、豊作を祝い、祖先とともに収穫を楽しむことである。さらにみんなで掃除したり、もちをついたり、祖先を祀ったりする活動も含まれる。そして、家族全員でテーブルを囲み、一家団欒を象徴するもち米の団子を食べる。まず棚田での農作の苦楽を共にする牛に団子を食べさせ、ねぎらいの気持ちを表す家もある。

 

祭りが終わると、皆一緒に食事をする

 「昂瑪突祭り(旧暦の12月の初め頃)」は、雨季から乾季に入る印であり、農閑期が終わり、春の耕作が始まることを示す。この日、人々は穀物の種を蒔き、稲の苗を育てる。また黄色に染めたもち米と赤く染めた卵を苗代に供える。カッコウに春の到来を伝えさせ、田植えの節気を知らせてくれる天の神様に感謝する。同時に、来年収穫する稲が黄色のもち米のように金色になり、赤い卵のようにふっくらするようにという気持ちも込められている。

 

「康俄溌」は、標準語に訳せば「開秧門」、旧暦の3月の田植えが始まる日である。この日は「田植え娘」が嫁に行く日とされ、ハニ族の娘たちや新婦は晴れ着を身にまとう。親しい友人たちも苗代のそばに集まる。まず主婦が一束の苗を抜き、村の人望ある年長者に最初の苗の田植えを頼む。それから、みんなも田植えを始める。

 

「莫昂納祭り」は、標準語では「関秧門」という。旧暦の4月に行われ、春と夏の変わり目で、春の農繁期の終わりを示す。豚をつぶして祖先を祀るほか、牛や鋤、マグワ、ナタなど棚田で使う農機具を祀り、家畜や農機具に対する労いの気持ちを示す儀式も行われる。各家庭ではさらに、自分の棚田の入水口で、水源を祀る儀式も行う。

 

「矻扎扎祭り」は、標準語で「6月祭り」という。旧暦の6月24日ごろの夏から秋への変わり目で、秋の取り入れの農繁期に入ることを示す。主に牛をつぶし秋を祭り、「磨秋」(シーソーに似たもの)に乗ることもある。言い伝えによると、ハニ族の人々が棚田のあぜをつくるとき、アリやミミズなど虫たちを排除してしまった。追い出された虫たちが天の神様に告げ口すると、神様はそれに答え、虫を殺した人は罰として天に投げる、と約束した。神様はまた同時にハニ族の人々に、磨秋に乗って遊ぶことで、虫たちに罰を受けたかのように見せかけてごまかすよう教えたという。

 

このほかに、新米を味わい、穀物倉庫を祀るといった祭りもある。いずれも豊作を祈り、穀物を貯蔵するなど実用的な目的のために設けられた喜びの祭りであるが、農耕作業を遅らせることのないようハニ族に注意を促す目的もある。ハニ族の人たちが暮らしの安定と五穀豊穣の願いを宗教的な形で表し、代々敬虔に行ってきたこのような伝統的農耕祭礼は、棚田文化の重要な風景となっている。

 

棚田・長街宴と観光

ハニ族の一支系「奕車」の女性たち。ショールつきの帽子や襟のない上着、体にぴったりした半ズボンなど、棚田で働くのに適した民族衣装である。足にはいているのは、なんと日本の下駄にそっくり。遥か遠く離れた二つの民族の相似性に、驚きを禁じえない

元陽県では「昂瑪突祭り」、緑春県、紅河県では豊作を祝う「十月年祭り」のときに、ハ二族のすべての村をあげて長街宴(長い通りにずらりと並べる宴席)を開く。小さい村はいくつかの村が一緒になり、大きい村は2、3カ所に分けられる。2、3日がかりで、宴席の主人役は順番に回ってゆく。主人役になった家々の人々は、それぞれ得意料理を作る。誰よりもおいしい料理をたっぷりと作ることによって、その家の人の面目が立つ。どの家も、まずごちそうを並べたテーブルを祭司の家まで運び。すべてのテーブルを{いちもんじ}一文字につなげて並べ、長いもので7、80メートルほど、100メートル以上並べることもある。遠くから見ると、長い竜のようである。

 

一堂に会した村中の老若男女は、それぞれ自由に席について飲み食いする。途中、祭司の音頭にあわせ、ハニ族に古くから伝わる「飲酒歌」を合唱する。一年間棚田を耕作した村民たちは、楽しく集うことで、豊作の楽しみを共に享受する。長街宴が開かれているときには、人懐こく客好きなハニ族の村民は、村の外からやって来たすべての客を貴賓とみなし、宴席ついて酒を飲むことをすすめる。

 

現在、こうした長街宴が県城でも行われるようになった。政府が棚田観光文化フェスティバルの主要プロジェクトに位置づけた長街宴に、国内外から観光客が殺到している。千メートルほどの長い長街宴に参加した観光客は、祝日を祝う盛装姿で道路の両側に並ぶハニ族とイ族の村民たちに熱烈な歓迎を受ける。「道を遮る酒」と呼ばれる酒を飲まされ、刺繍の美しい小さな袋「荷包」を贈られ、竹ひごで編まれたテーブルの好きな席に腰を下ろし、ハニ族ならではの料理に舌鼓を打ち、宴席に興を添える歌と踊りを楽しみながら、少数民族の祭りの熱い雰囲気を体験することができる。

 

観光客に酒をすすめるハニ族の女性

歳のころ60近いイ族の馬理文さんは、もともと元陽県の「文聯」(中国文学芸術界聯合会)の作家として創作活動をしていたこともある、元文化局の局長である。かつて頻繁に観光客を棚田に案内していたことで、多くの人の撮影した写真を見ているうちに興味を持つようになり、自分でも写真を撮り始めた。そのうちに自分でも意外なほど、カメラを手放せなくなってしまったという。この土地の風土と人情を熟知し、棚田と芸術を愛し、こだわってきた馬さんは、棚田の美しい写真を大量に撮影した。作品は展覧会でたびたび賞を取った。アメリカの雑誌の表紙を飾ったこともある。その後、局長の職を辞し、プロとして撮影を続けるようになった。現在、元陽県の街頭や名所で販売している葉書、画集などの様々な棚田の写真は、ほとんどが馬さんの撮ったものである。大きく引き延ばされ、ホテルや政府機関の会議室、街頭のポスターになった作品も少なくない。

 

「元陽県の棚田の人気は年々高まっています」と馬さん。彼が1年間に迎える国内外の観光ツアーの数は百以上に上る。全国の省クラスの撮影協会の主席の半数は元陽県に来たことがあるという。いずれも馬さんの案内である。ガイドを頼まれて案内した海外の写真家の国籍も数十カ国に上る。80年代以降、日本からも多くの研究者が「ルーツを尋ねて」哀牢山へやって来た。その研究者たちの著作に、雲南省は「アジアの給水塔」と呼ばれ、古代の人が中国から東アジア、東南アジアそして南アジアへの「移動の中心及び文化交流の中心」であったことが書かれているという。哀牢山の棚田は「日本のコメ文化の発祥地」である可能性も高いといわれる。

 

馬さんによれば、元陽県の棚田撮影には、11月から翌年4月までが最高の時期であるという。この期間には、大勢の撮影愛好者が写真を撮るためだけにこの地を訪れる。春節やメーデー、国慶節などの連休中には、一カ所の撮影ポイントに、カメラの三脚台を立て日の出の写真を狙う人が数千人集まることもある。この壮観な撮影者の群れに焦点をあわせて写真を撮っていた海外の写真家がいた。その写真家の「なぜ中国にはこんなに多くのカメラマンがいるのか」という質問に、馬さんは笑いながら答えた。「プロのカメラマンとは限りません。趣味の撮影マニアが多いのですよ」

 

棚田の発見について、馬さんは次のように説明してくれた。最初は外国人が人工衛星が撮った画像から元陽県の棚田を発見した。続いて、香港や台湾の写真家が相次いで発見。その後、北京や上海、広州の写真家も元陽県に集まってくるようになった。雲南省の人々は、まるで夢から覚めたばかりであるかように、自分たちの故郷に世界一の景観があることに気づかされた。しかし、この大地芸術の創作者であるハニ族の人たちは自分たちがつくりあげた奇跡をそれほどたいしたものであるとは考えていない。彼らにとって、棚田の外観を楽しむことよりも、コメの生産量を気にすることの方が大切なことなのである。(魯忠民=文・写真)

 

インフォメーション

 ▲交通・宿泊 昆明から直接元陽の新県城(昆明から270キロ)へ、または、昆明からまずバスで紅河州の州都・蒙自県へ行き、元陽の新県城行きのバスに乗り換える。そこでさらにバスを乗り換え、約30キロ離れた旧県城の新街鎮へ。宿泊は、旧城内のホテルを拠点に各観光ポイントを回るのが便利。また、村の観光ポイントには食事、宿泊が可能な民宿もある。撮影には、また特に日の出を撮りたい場合には、個人ドライバーの車をチャーターするのがベスト。祭りの日の「長街宴」に参加したい場合には、ホテルか旅行社に問い合わせる。郷・鎮・村の「長街宴」では外から来た人はみな客と見なされ、費用はかからないが、必ず帽子を被ること。男性の席は自由だが、女性は女性専用席のみ。
▲飲食 ハニ族の客をもてなす「{メングォジィウ}悶鍋酒」を飲みながら、棚田に生息する鯉や、元陽の山で育った野菜、花、虫、さなぎなどが食べられる。
▲アドバイス 棚田観光のベストシーズンは11月から翌年4月まで。稲が刈り入れ後の穏やかな乾季で、透き通った棚田の美しさが楽しめる。中国の祝日のときには、写真撮影の人で混み合うため、ホテルの予約は早目に。日の出の撮影も、渋滞を避けるため、早めの出発が望ましい。

 

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