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慈覚大師円仁 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた
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円仁は旧暦7月13日に太原府に入り、15日に行われた仏教行事「盂蘭盆会」供養に間に合った。続く12日間、一行は太原府周辺のいくつかの寺に逗留した。
その一つが古い晋陽城の東側にあった崇福寺である。そこで円仁は盂蘭盆会のために陳列された仏像や装飾の美しさに眼を奪われた。もと崇福寺のあった場所には、今はなにも残っていないが、本堂は天龍山景観指定地区に移築され、勝寿寺の本堂となっている。
旧暦7月16日、円仁は開元寺を訪れた。この寺の遺跡は、今では太原市の真西にある蒙山上の連理塔として知られている。円仁は、「私たちは閣に登って(府内)を見渡した。閣内には、鉄で鋳造した弥勒菩薩像がある」と書き、さらに像の大きさと、その前に置かれた立派な仏具や供物に感嘆している。
円仁は840年旧暦7月26日、石門寺を通りかかり以下の話を記している。「山門のところに小さな寺があり石門寺という。そこに一人の僧がいてもう何年も法華経を念じてきた。その功徳によって仏舎利が顕われた。伝え聞いた太原府城内の人々がことごとくやってきて供養を行なった。推測するに、その僧は三つの光に導かれて山の崖まで行き、そこを掘ったところ仏舎利の入った三つの瓶が出てきたらしい」と。
別の資料には、石門寺で最も有名なものは、唐の則天武后の祈願によって彫られた華厳経の石刻版であると書いてある。私が太原市南郊の晋祠廟境内で写真に収めた石刻こそ、まさにこの宝物であったことを、後になって知った。石刻はここに移されて破壊から守られていたのである。
私は、円仁の足跡を追って龍山深く入り、円仁が宿泊した童子寺遺跡を探した。龍山景勝指定地域は太原市の西南20キロのところにある。地元に「龍山は、表は道教、裏は仏教」という言葉がある。私はすでに5回も太原に行っていたが、仏教遺跡について話してくれたガイドは一人もいなかった。当日は蒸し暑い日だった。私は山腹をゆっくりと登り、最後の急な石段を70段登って嶺の頂上に着いた。樹齢千年の一本の桧を、道教のお堂と洞窟が囲んでいた。
童子寺のこの部分の配置がはっきり分かった。寺は仏像を彫った崖を前にして建っていたのである。石を積みあげた巨大な柱は、円仁が記している通り、二体の菩薩像を両脇に置いた巨大な阿弥陀像の一部であったことは明らかである。私には、仏像の中心構造であったなんの装飾もない岩の、むき出しのフォルムを通して、これらの仏像を思い描くことができた。
ライシャワー教授は、円仁日記の文章を英訳するとともに、「その規模から察するに、これらの仏像は崖面に彫られたものであったようだ」と自ら解説している。教授は一度も童子寺を見ていないが、崖に関する考察は正しかった。
考古学者たちはあらゆるものを発掘してきちんと残し、まるで今回の私の訪問に合わせて整理しておいてくれたかのようだった。もう一つ判明したのは、山の反対側から龍山頂上に上る車道があったことである。それを知らなかった私は、長い登りに汗を流さねばならなかった。頂上に駐車してある車を見たときには、言葉を失った。しかし、この厳しい登りがあってこそ、私には、往時の巡礼行に伴う困難と、円仁の挑戦が理解できたのである。
貯炭場の尼僧(円照寺)(写真①) 円仁は、太原で初めて石炭を見て、その燃焼力と煮炊きに利用されていることに驚愕した。とても自然現象とは信じられず、天からの賜物、すなわち何らかの超自然的解釈があるはずだと考えた。一人の尼僧が、どこにでもある練炭の山の傍らで眠りこんでいた。練炭は煮炊きと冬の暖房用にこうして貯蔵されている。
晋祠博物館にある華厳経(写真②)
これらの石刻は則天武后から賜ったものであった。彼女は厚く仏教を庇護し、699年に華厳経を漢語に翻訳させた。この石刻が彫られたのは704年、中国最古の法華経翻訳版であり、則天武后が龍山の童子寺で発見した法華経写本がもとになっている。
この太原周辺地域は唐朝廷発祥の地とされ、朝廷によって重んじられていた。そして童子寺は一族の菩提寺であったのだ。この宝物の保存状態が非常によいのを目の当たりにして、私は石の耐久力と、それが過去を知る上でどれほど役立つかに感動した。
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