歴史沿革
◇吐蕃王朝期 7-12世紀
7世紀はじめ、強大な唐王朝が中原地区に成立、中国内地の300年にわたる混乱分裂の局面は終わりを告げた。それと同時に、今日のチベットのロカ地区ヤルン出身のソンチェン・ガムポが各地の部族を征服し、有史以来初の青蔵高原各部族の統一政権、吐蕃王朝を建てた。ソンチェン・ガムポは吐蕃と唐朝の往来を十分に重視し、中原における先進的な漢族の文化をおおいに吸収した。彼は二度にわたり、唐朝に大臣を派遣して求婚し、唐の太宗、李世民の娘、文成公主を娶った。このことにより、双方の往来は頻繁になり、政治、経済、文化の交流は広くまた深くなり、民間の往来も全面的に発展し、チベット族と中国のそのほかの民族との関係は、かつてなかったほど密接なレベルとなった。唐と吐蕃は、八度の会盟を結んでおり、今日に至るまで、ラサのジョカン寺の正門前には、「唐蕃会盟碑」が屹立している。この後、三、四百年の間、チベット族と北宋、南宋、西夏、遼、金などの政権は密接な連絡があった。
◇元代(1271年~ 1368年)
1271年モンゴルのフビライ・ハーンは国号を元と定め、ウスザン(今日のチベット中部、西部、およびそれ以西の地区)、ドゥオガンなどの地が統一された多民族の大元帝国の一部となり、チベット地方は正式に中国の中央政府の直接管轄下に入った。元王朝が中国を統一したのち、チベット族地区の実際の状況に基づいて、中央機構総制院が初めて置かれ、チベット族の僧侶や俗人が中央から地方までの高級官吏を担当した。ウスザン、ドゥオガンなどの地方の行政機構の設置および官吏の任免、昇進や降格、賞罰はみな中央の命に従った。 ◇明代(1368年~1644年)
1368年、元朝に代わり明朝となると、元朝の古い勅令や印章を接収し、それに代えて明朝の新しい勅令や印章を発布する方式を採用して、政権は平和的に移行し、チベット地方に対する国家主権を継承した。明朝には、元朝の用いた職官制度はなく、特色ある僧官封授制度を建てた。各地方の政治と宗教面における代表的なリーダーに明朝はそれぞれの称号を与え、また彼らに印章と領地を与えて、それぞれの地方を管理させ、官職の継承は皇帝の批准に拠るものとした。
◇清代(1644年~1911年)
1644年、清朝は都を北京に定め、中国を統一した。清朝は、歴史的な前例に従い、チベットにおいて主権を行使し、前王朝により封じられた官吏が前の王朝の官印を返上し、新王朝が授ける官印に改めさえすれば、元の地位は不変とした。1652年、チベット仏教ゲルグ派のダライ・ラマ5世は北京に召されて順治帝に拝謁し、翌年には、清朝によって正式に封じられた。後にパンチェン5世も康熙帝によって封じられた。ダライ・ラマとパンチェン・オルドニの封号と彼らのチベットにおける政治、宗教における地位は、これによって正式に確立し、以降、歴代ダライ、パンチェンは中央政府により封じられ、次第に定められた制度となっていった。
◇中華民国期(1912年~1949年)
1911年辛亥革命によって封建帝政が倒されると、翌年には中華民国が成立した。『中華民国臨時約法』には「チベットは中華民国の22行政省の一つである」と明確に記されている。のちに正式に発布された『憲法』などの法律法規においても、チベットは中華民国の一部分であることが明確に規定されている。
◇中華人民共和国期(1949年~)
・チベットの平和的解放と民主改革
1949年10月1日、中華人民共和国は成立を宣言した。当日、チベット仏教ゲルグ派の二大活仏の一人、10世パンチェン・オルドニ・チュキギェルツェンは中央人民政府擁護を表明し、またできるだけ早くチベットを解放してほしいとの強い願望を表した。
1951年5月23日、『中央人民政府とチベット地方政府間のチベット平和解放に関する方法の協定』(略称『17カ条協定』)が北京において締結された。協定が調印されたのち、14世ダライ・ラマと10世パンチェン・オルドニはそれぞれ中央政府に電報を送り、『17カ条協定』を支持し、祖国の主権の統一を擁護する決意を表明した。1951年10月 26日、『17カ条協定』に基づき、チベットの平和解放が実現した。
1954年、ダライ・ラマ、パンチェン・オルドニはともに北京に赴き、中華人民共和国第一回全国人民代表大会に参加した。この会議上で、ダライ・ラマは全国人民代表大会常務委員会副委員長に、パンチェン・オルドニは全国人民代表大会常務委員会委員に選ばれた。1956年4月22日、チベット自治区準備委員会がラサに成立した。ダライ・ラマが主任委員となり、パンチェンが第一副主任委員となった。
チベットの民主改革は『17カ条協定』が定めた原則である。しかし20世紀半ばのチベットは、欧州においては廃止されて数百年にもなる封建農奴制度の下にあり、農奴主階級はそれを変革してはならない素晴らしい制度だと見なしていた。だから『17カ条協定』の執行をめぐって、中央人民政府やチベットの愛国的進歩的な勢力とチベット上層部の守旧勢力との間には、鋭く、複雑な闘争が行なわれたのである。1959年3月10日、チベットの反動的な農奴主階級は、既得権益を維持するために「チベット独立」を宣言し、全面的な武装反乱を起こした。3月28日、国務院は元のチベット地方政府を解散し、チベット自治区準備委員会がチベット地方における政府の職権を行使し、10世パンチェンが準備委員会主任の代理となる命を下した。
1959年6月と9月、チベット自治区準備委員会は『全チベット自治区で民主改革を行うことに関する決議』と『封建農奴主土地所有制を廃止し、農民の土地所有制の実行することに関する決議』などの歴史的決議を前後して可決した。そして十分に大衆を動かし、全自治区で民主改革を実行し、封建農奴主の土地所有制を廃止し、農民の土地所有制を実行することを決定した。歴史の潮流に沿った民主改革の基本的な任務は1961年末には完成し、チベット地方の各県、区、郷で基本となる人民政権が建てられた。1962年3月には、全自治区92%の郷鎮において農会を基礎とした普通選挙が推進された。1965年7~8月には、県クラスの選挙工作が基本的に完成した。
・チベット自治区の準備と成立
『17カ条協定』のなかの重要な項目の内容は、「中国人民政治協商会議の共同綱領の民族政策に基づいて、中央人民政府の統一的指導の下、チベット人民は民族区域の自治を実行する権利を持つ」というものである。1951年のチベット平和解放から、1956年のチベット自治区準備委員会の成立、1959年の準備委員会のチベット地方における政府職権の行使、また1965年のチベット自治区の正式な成立まで、この間に14年の歳月が流れた。
1954年11月、チベット自治区準備委員会準備小組が成立した。2年の作業を経て、1956年4月22日、チベット準備委員会がラサで正式に成立した。準備委員会は、チベット地方の政府、パンチェンカンプ(チベット語、寺院の宗教の首領)会議庁、チャムド地方人民解放委員会、中央政府の代表およびそのほかの方面の51人の委員で成り、ダライ・ラマが主任委員、パンチェンが第一副主任委員となった。
チベットの旧政権に対し、中央は終始、平和的改革の方針を堅持し、下から上へと大衆を動員すると同時に、上から下へ平和的に協議するということを有機的に結びつけた。この方針に照らして、準備委員会は元のチベットの地方政権を平和的方式で人民政権に転化させ、大量の旧政権の官員は吸収され、ふさわしい官職が手配された。しかし上層部の統治者のなかの少数の反動分子は、1959年3月10日、武装反乱を起こした。ダライ・ラマはインドに逃亡し、自治区準備委員会はチベット地方政府の職権を行使し始めた。また中央政府はパンチェンを準備委員会代理主任委員に命じた。 数年後、チベットの民主改革や各級の人民政権の設立、幹部養成などの作業が盛んに展開され始めた。民主改革が基本的に完成し、各県の人民政府および末端政権が普遍的に成立した基礎のうえ、1965年9月1日、チベット自治区は第一回人民代表大会第一回会議をラサで盛大に挙行し、チベット自治区の成立を正式に宣言した。人民代表大会制度、民族区域自治制度と政治協商、民主監督制度は、チベットにおいて全面的に樹立され始めた。
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