九州を旅して感じた中日文化交流史

北京大学国際関係学院本科一年 徐博晨

 私は日本の神戸で生まれた。19歳になる。今年初め、私は北京大学の日本語学部の先生と2人の学生とともに「北京大学中日文化交流史九州考察団」を組織し、2週間にわたって九州各地を旅した。

歴史の中の九州  

『史記』の「淮南衡山列伝」は、秦の時代、徐福と呼ばれる方士(方術使い)が3000人の男女らを率いて日本に渡たり、「平原・大沢」を手に入れ、そこにとどまって王となった、と記載している。この真偽を巡っては、歴史家たちがずっと激しい論争を繰り広げてきた。

私たちは20年前に発掘された佐賀県の吉野ヶ里遺跡を参観したが、そこでは多くの進んだ青銅器、鉄器、稲作農耕の址が発見されていた。また2000以上の甕棺墓が出土しているが、これは当時、中国大陸の東部で流行した埋葬方式である。さらに発掘された人骨から、当時の人々の平均身長は165センチで、他の日本人よりもかなり背が高かったと推定されるという。

こうしたことから私は、吉野ヶ里の人々は、中国から渡ってきた人であり、徐福の子孫かもしれないと思った。もちろんこれはロマンチックな推測に過ぎない。吉野ヶ里遺跡は徐福より百年余り後の時代のもので、両者は直接の関連はない。もし徐福が佐賀平野に居を定めたのであれば、多くの文字や文物が残されているはずだ。

合理的に推測すれば、その当時は絶えず大陸から移民が日本にやってきたのだろう。徐福の物語は、彼らのもっとも典型的なものではないか。

『魏志・倭人伝』の中に出てくる「一大国」は「一支国」の誤記で、「一支国」は今日の壱岐で発見されている。また「末盧国」「伊都国」「奴国」もみな九州に遺跡があることが確認されている。

『後漢書・東夷伝』には、建武中元2年(57年)に「倭奴国」が朝貢し、光武帝が「印綬」(印章と印のひも)を賜う、と記載されているが、1784年、福岡県志賀島でこの金印が発見された。私たちは志賀島の金印公園を見学したが、郭沫若、楊尚昆ら多くの人々がここに題辞を残していた。

福岡市の街頭にはあちこちに金印が見られ、まるで市のシンボルマークのようだ。菓子屋さんのショーウインドーの目立つところに、金印の形をしたお菓子が飾られていた。

九州の人々は、こうした歴史をとても誇りに思っているようだ。         

九州で会った人々

吉野ヶ里で、徐福研究会の人々と

 今回の調査旅行で私たちが泊まった学生アパートは、「玄南荘」という会社が経営していた。「玄南荘」の渕上高当社長は、たいへんユーモアがあって朗らかな人であり、中日交流を大いに支援している人でもある。「どうして中国が好きなのですか」と尋ねると、渕上社長は「四分の一、中国の血が流れているから」と明かした。父は中国で生まれ、祖父は満鉄の技師だったという。

この答えを聞いて、私はこんなことを考えた。当時の「大日本帝国」は、中国の東北部を植民地にし、中国人は今でも「満州国」という呼び方を嫌悪し、恨んでさえいる。これは明らかなことである。しかし、たとえこのような恨みと対立に満ちた土地の上でも、文化交流の花は粘り強く咲き、数十年後の今日でも友好の果実を結ぶのだ。

皮肉にも、現在の日本でもっとも中国に関心を持っている人は、かえって当時中国で過ごした日本の植民者たちや日本兵、彼らの子や孫たちであったりする。第二次世界大戦中に強制連行された労働者の訴訟のため中国の弁護団が日本に到着したとき、旧日本軍人の組織が弁護団のホテルの安全を保ち、右翼分子の妨害を防ぐため、自主的に行動したことを報道で知った。テレビ画面から、廊下に直立不動で、きちんと立っているかつての「鬼子(日本兵)」たちを見たとき、私は心中、さまざまな思いが入り混じった。いまになってやっと、私はその複雑な感情を本当に理解できるようになった。

もう一人、平戸の松浦博物館の木下昌弘館長のことにも触れておきたい。木下館長の先祖は、戦国時代からずっと平戸に住んでいた。博物館の中に展示されている昔の平戸の町並みの地図を参観したとき、思いがけず私たちは「木下姓」の邸宅を見つけた。木下館長は誇らしげに「これは私の先祖の邸宅です。私はいまもそこに住んでいます」と言った。

戦国時代、平戸は中国の海賊の頭目、王直の根拠地であった。その時代、もう一人の有名人が平戸で生まれた。国姓爺の名を明朝から賜った鄭成功(1624~1662年)である。彼は日本人とのハーフであった。

平戸で、私たちは木下館長に案内されて、多くの王直と鄭成功の遺跡を参観した。現代の平戸の人々が建てた鄭成功の小さな廟を紹介した木下館長の老いた顔に、何か悪いことをした子どものような表情が浮かんだのを見て、私は怪訝に思った。「あまりにも粗末な建物で、お笑いになるでしょうね」という館長の釈明に、私たちはかえって困惑した。

鄭成功は成人した後、平戸には帰ってこなかった。平戸に何か良いことをもたらしたこともない。しかし日本人は、この一中国人のために碑と廟を建てた。これは並大抵のことではない。おそらく木下館長から見れば、ここで生まれた鄭成功は、「身内」の人間なのだろう。

新しい中日交流史をつくろう

九州で過ごした日々、私は何度も感動した。この地の豊かな文化の息吹、心を込めて客をもてなす人々に感動したのである。引率の教官、滕軍先生が述べた言葉は味わい深いものだった。「私たちが今日ここへ来たのは、中日文化交流史を研究するためです。しかし同時に、私たちがまさに新しい中日交流史をつくり出していることを忘れてはなりません」

そうだ、私たちは、目的や時代は違っても、徐福や鑑真、朱舜水らと同じように、文明の花粉を伝えるという使命には、まったく変わりがないのだ。中日の文明の花が交配し、平和と安寧の実を結んでほしい、と思った。(0806)

 

人民中国インターネット版 2008年7月8日

 

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