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ワングル山の山中にある甘丹寺 |
甘丹寺にあるツォンカパの霊塔 |
まもなくラサに到着するというとき、突然、空に砂嵐が巻き起こり、田野も村落も一面真っ暗になった。雪まじりの砂嵐に、車列はスピードを緩めた。筆者がチベットを訪れるのは3回目になるが、交通手段は毎回異なる。初めてのときは、飛行機でラサに直行した。2度目は、青海・チベット鉄道の開通後、美しく神秘的な青海・チベット高原を列車で乗り越えてラサに入った。そして今回、ジープで茶馬古道の雲南・チベットルートに沿って、十数日の苦しい旅に耐え、ラサまでたどり着いた。
最古のゲルク派寺院 甘丹寺
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水を運ぶラマ僧 |
甘丹寺のラマたち |
車列はラサ川に沿って東から西へラサの中心部をめざして進んだ。ラサから約40キロのところで、哲蚌寺、色拉寺とあわせてチベット仏教ゲルク派の三大寺の一つである甘丹寺に立ち寄った。
ラサの東に位置する甘丹寺は、ラサ河の南岸にある標高3800メートルのワンブル(旺波日)山にあり、1409年、チベット仏教ゲルク派の創始者であるツォンカパによって建てられた。
その昔、ツォンカパが弟子たちと一緒に寺院を建てる場所を探していると、突然飛んできたカラスに帽子を奪われてしまった。帽子をくわえたカラスは山の中腹あたりをしばらく旋回してから、ワンブル山の山坂で帽子を捨てていった。急いで追いかけたツォンカパと弟子たちはこれを神様の意図と見なし、ワンブル山に寺院を建てることに決めた、という伝説が残っている。1410年2月5日、甘丹寺が落成、ツォンカパが開眼供養大典を司った。
甘丹寺は、最盛期には敷地面積15万平米、建設面積7.75万平米に及び、ツォチン大殿、ツォンカパ寝殿、ヤンバーケン経院、そしてツォンカパ霊塔祈殿などの建築物を擁する、もっとも早く建てられたゲルク派の寺院である。
曲がりくねった山道に沿って、甘丹寺まで登ってゆく。寺院の中には、90あまりの歴代ガンデンティパ(座主)の遺体を収めた霊塔が現在に至るまで保存されている。1419年に甘丹寺で円寂したツォンカパの肉体も、霊塔に収められている。
甘丹寺には貴重な歴史文化財も数多く秘蔵されている。その中には、1757年に清代の乾隆帝から賜った、金銀宝石をちりばめ、漢、満、蒙古、チベットの四民族の文字の書かれた甲冑や、純金の液で写経されたチベット仏教経典『大蔵経』の中の『カンジュール経』一式など国家特級レベルの文物もある。
毎年チベット暦の正月に、甘丹寺で盛大な「甘丹繍唐節」大法会が行なわれる。大法会には、明代の永楽帝から賜った貴重な贈り物を信徒や庶民たちに開帳する。十六羅漢や四天王などの仏像が縫い取りされた24枚の絹織刺繍絵画を拝むため、多くの信徒とチベット族の人々が集まってくる。普段、寺院を参観する観光客は、こうした壮観な文化財と大法会を拝むことはできない。自由な参観や撮影が禁止されている殿堂もある。
僧侶たちの生活とお茶
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茶店「唐拉歓聚」のおかみさん・ヤンツォンさん(左) |
小昭寺前でお茶の商売をしているバイマさん |
チベットの人々はお茶を嗜む。人々の間に、広く伝わっている物語がある。昔、吐蕃王のチートソン(赤都松)が重病にかかり、あちこちの医者に頼ったが治らない。寝室で療養していたある日、窓の外から葉をくわえた美しい鳥が飛びこんで来た。チートソンが歩み寄ったとたん、鳥は窓のところにその葉を置いた。これほど美しく、鮮やかな、すがすがしい香りのする若葉を見たのは初めてだったチートソンがそれを口に入れると、たちまち身体の渇きが癒され、頭がすっきりとして気分がさわやかになり、体調も非常によくなった。
そこで彼は、その葉をなんとしてでも見つけるようにと大臣たちに命じた。大臣たちはいたるところを探しまわった。ある大臣が東へいくつかの川を渡り、現在の雲南省のあたりでようやく例の葉を見つけた。彼はそれを吐蕃まで運び、チートソンに献上した。「この薬の木は何というものか」と大喜びのチートソンが尋ねると、大臣は「漢族の人々は茶と呼んでおります」と答えた。それ以来、大臣たちは茶を薬とみなし、毎日チートソンに煎じて飲ませた。数日後、果たしてチートソンの体は回復した。お茶が最初は生薬として吐蕃に取り入れられたということは、『漢藏史集』にも記録が残っている。
チベット族の作家であり、茶馬古道研究の専門家であるザシツォマーさんに、チベット地区のラマ僧たちの茶を飲む習慣について説明してもらった。最初に茶を飲むことをチベットに取り入れたのは、ラマ僧と貴族たちであったという。現在に至るまで、寺院では茶を飲む習慣と厳しい規則が受け継がれてきた。ラマ僧たちは毎日朝、昼、晩3回の読経の後、必ず全員揃って茶を飲むが、何種類かの茶を混ぜて大きな鍋で煎じた、非常に濃厚な茶である。お茶を煎じるのも、お茶を分配するのも、専任の人が責任をもって行う。
朝五時に起床すると、ラマ僧たちはまずツォチン大殿(大経堂)で経文を唱え、朝の茶を飲んでから、それぞれの僧舎に戻って休息を取るか、あるいは経文の学習を続ける。午前9時すぎになると、再び扎倉(僧院)の大殿に集まって読経し、昼の茶を飲む、といったことが3時間ほど続けられる。また、午後3時すぎにはそれぞれの康村(僧侶の原籍によって設立された経文を勉強するグループ)のラマ僧たちが、大殿に集まって経文を読んだり茶を飲んだりする。夜にも再び「康村」に集まり、茶を飲み、神仏に祈る。
茶を飲む時間になると、僧侶たちは各自決まった位置にきちんと座り、適当に座ったり、ガヤガヤとしゃべったり笑ったりすることは禁じられている。それぞれ持ってきた茶碗を自分の前に置くと、茶の分配を担当するラマ僧が、順番に茶をついでゆく。ラマ僧たちが茶を飲んでいるとき、殿堂はしんと静まりかえっている。1日3回全員揃って飲むほか、多くのラマ僧は各自の僧舎に茶葉と小さな鍋を用意し、休息時には自分で茶を煎じて飲んでいる。
小昭寺の門前町
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大昭寺の前で「経輪」を回しながら読経するチベット族の人々と観光客 |
「浮遊」バーで歌う雷子さん(左) |
小昭寺は7世紀中期に創立された。唐の皇女・文成公主がチベットに嫁いで来た際、一緒に連れられて来た漢族の職人たちによって建てられたため、唐代の建築スタイルをそなえている。小昭寺の前にはにぎやかな商店街があり、通りの両側には庶民の住宅がずらりと並んでいる。
チベットの一般の人々も、1日3回お茶を飲む習慣がある。朝、普通はバター茶を飲む。沸かした湯に、煎じた濃厚な茶を混ぜ、塩とバターを入れ、チベットの特有のバター桶で加工する。バター茶は喉の渇きを潤す、チベット人の生活に欠かせない飲み物である。昼に甜茶(紅茶にミルクと砂糖)を飲むのはインド、ネパールから取り入れた習慣である。夜には清茶を飲む。自宅だけでなく、茶店でも茶を飲みながらおしゃべりをする。ラサ市内には大小ひっくるめて百以上の茶店があるという。
小昭寺前の茶店「唐拉歓聚」の前で、おかみさんのヤンツォンさんが熱心に客の呼び込みをしている。店内の明かりはほの暗く、テーブルをいくつか並べただけの、田舎の学校の教室のように質素な店である。並んで座っている客たちは、茶を飲みながらテレビを見ている。
「お茶を飲みにくるお客様が一番多いのは午後ですね。忙しいときで、百人以上のお客さんがやってきますよ」
ヤンツォンさんが熱々の甜茶をいれてくれた。飲み終わると、チベット族が客を接待するルールだといって、もう一杯飲めと勧められる。「チベット族の家にお客さんがあれば、主人は必ずお茶をふるまいます。お客さんの方は茶碗を手にしたら、二杯以上飲まなくてはなりません。一杯目を全部飲んでしまってはいけません。ほんの少しだけ残し、二杯目をいれてもらうのを待ちます。一杯しか飲まないのは、友好的ではないとみなされます」
それを聞いて、慌ててもう一杯ごちそうになった。
ヤンツォンさんの茶店を出て、一軒一軒回って当時の「茶馬互市」の跡を捜そうとしたが、残念ながら何も見つけることはできなかった。街の両側に並んでいるのはほとんどが日用品を売っている新しい店で、わずかに数軒が四川省雅安産のお茶を売っているだけであった。ある大きな茶屋の前で、店主のバイマさんと話をした。
「かつては内陸からの茶は、まず列車でゴルムド(格爾木)に運ばれ、それからトラックでラサに運ばれたので、非常に手間がかかっていました。今では青海・チベット鉄道が開通したので、ずいぶん便利になりました」
ラサの最後の夜、「浮遊」という名の小さなバーで、北京からやってきたという斌子、雷子と名乗る若い歌手に出会った。「チベットに来たけれど、ラサから成都へ行って、雲南省や深圳にも行きたい。行き着いたところなら、どこででも歌うんです」
私たちがジープで茶馬古道を巡ってきたことを知ると、雷子さんは羨ましげな表情を見せた。私たちにせがまれると、『白樺林』という歌を歌ってくれた。
「静かな村に真っ白な雪がひらひらと舞う。暗い空の下にハトが飛んでゆく……」
遠い異郷で、家族のことを懐かしんだのだろうか。人々の心揺さぶる歌を歌いながら、雷子は目に涙をためていた。(馮進=文・写真)
人民中国インターネット版 2008年7月21日
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