北京五輪の女子フルーレ個人が11日、北京国家会議センターのフェンシング館で行われた。午前11時に始まった1回戦で注目を集めたのは、カナダの欒菊傑とチュニジアのイネス・ブーバクリとの対戦。試合が行われる細長いピストに欒菊傑が上がると、会場からは大きな拍手がわき起こった。観客席では子どもたちが「ママ、頑張って。愛してる」と書かれた横断幕を振っていた。
ピストの一方で構える20歳のチュニジア選手は、対戦相手がなぜ中国でこんなに人気があるのかわからなかったに違いない。わかっていたのは、50歳という対戦相手の年齢が、自分のフェンシング歴で最高齢となることだけ。試合は、欒菊傑が13-9で30歳年下の相手を下した。欒は試合後、「祖国好」と書かれた幕を掲げ、勝利を観客席と分かち合った。
50歳になるこの剣客は、1984年のロサンゼルス大会に中国代表として出場した中国フェンシング史上唯一の金メダリスト。24年を経て五輪会場に戻った彼女は、故郷の親戚たちの前で再び剣を抜き、勝利を飾った。
欒菊傑は07年初め、北京大会に出場するための行動を始めた。ワールドカップに参加したことがなかったため、出場資格の獲得につながる全ての試合に出場し、夢の実現に向かって一歩ずつ駒を進めていかなければならなかった。
今年50歳という欒菊傑の年齢はコーチとしても高すぎるほど。だが欒は子どもと同じくらいの相手を次々と負かし、1年ほどの間にランキング200位以外から2位にまで駆け上がってきた。
欒は07年5月から半年の間に、韓国・中国・日本・アルゼンチン・キューバ・米国・ロシアの7カ国を訪れ、五輪出場につながる8大会に出場した。
08年2月から3月までの間には、オーストリア・ドイツ・フランスなど欧州で行われた6大会に出場した。ある試合では、サイズの一回り小さい靴を間違えてはいてしまい、足の爪が全て青く変色してしまうというアクシデントもあった。7月には手の指に魚の骨を突き刺してしまい、夜には腕全体がはれ上がってしまうということもあった。やっと見つけた薬を飲んだら、アレルギー反応が出て、剣を持ち上げることすらできない状態になったという。さまざまな困難が襲ってきたが、欒の五輪出場にかける意志は揺るがなかった。
国際フェンシング連盟は今年5月、北米地区の女子フルーレ選手として、欒菊傑の五輪出場を決定。欒のがんばりはついに報われた。
50回目の誕生日を迎えた7月14日、欒菊傑はカナダから中国に飛行機で到着し、江蘇省のフェンシングチームと共に練習を始めた。ここは欒が昔、フェンシングを始めた場所でもある。江蘇省チームの総コーチは、「今の若い人でも欒の動きは真似できない。あと半年早く練習を始めていればメダルも夢ではなかっただろう」と欒の剣さばきを誉めている。
1回戦でチュニジア選手を下した欒は、アイダ・モハメド(ハンガリー)との2回戦でやぶれた。「1回戦の相手は若く、激しいプレーをした。激しいフェンシングには激しいフェンシングで返せばよかった。2回戦の相手はすごかった。防御型の選手かと思っていたら、試合開始直後から攻めて来た。私も数本返したけれど、間に合わなかった」。欒は試合後、笑いながら語った。「試合の過程は楽しむことができた。これまでの15カ月は苦しかったけれど、すがすがしい苦しみだった。北京大会に出場できたことは、私のスポーツ生涯の最高の結末です」。
写真:ハンガリー選手にやぶれた後、観客にあいさつする欒菊傑
「人民網日本語版」2008年8月12日
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