盛玉紅 23年の努力が生んだ金メダル

 

アテネパラリンピックの決勝戦でスパイクを打つ盛玉紅(ゼッケン「12」)(新華社)

2004年9月、アテネで開かれた前回のパラリンピックで、中国の女子シッティングバレーボールはついに金メダルに輝いた。中国チームのコーチであり、エースアタッカーでもある盛玉紅は「アテネ・パラリンピックは、オリンピックに参加したいという私の夢を叶えてくれました」と感動を込めて言った。しかし、この夢を叶えるために彼女は、曲がりくねった苦しい道のりを歩んできたのである。

盛玉紅は10歳の時から江蘇省南通市体育学校で、バレーボールの訓練を受けた。8年後、彼女は国家青少年バレーボールチームの一員に選ばれた。あまりの練習の厳しさに、両親は何度も娘にバレーボールをやめるように言ったが、盛玉紅はいつも「がんばる」と言い続けた。オリンピックに出ることが、彼女の最大の夢だったからだ。

だが、運命は盛玉紅に、残酷な顔を向けた。練習中、不幸にも盛玉紅は左足に重傷を負ってしまった。12センチの鋼の釘2本が、傷ついた足に埋め込まれた。その時、20歳だった盛玉紅は、まるで深い渊に突き落とされたようだった。彼女は自分が健常者として再びバレーコートに戻れないことを知った。彼女のオリンピックにかけた夢は終わった。「あの時、もう死にたいと思った」と盛玉紅は回想する。このショックは3、4年間続いた。しかし彼女は「バレーボールは生涯、捨てることはできない」と心から感じるようになった。

選手になれないならコーチになろうと、盛玉紅は南京体育学院運動学部の試験を受け、合格した。02年、盛玉紅は新たな転機を迎えた。江蘇省で身障者シッティングバレーボールチームが結成され、盛玉紅はヘッドコーチに任命されたのである。そして彼女は身障者の選手たちを率いて、シッティングバレーボールの試合に参加した。

彼女は新しい技術を研究しながら、仲間たちが心と身体の障害を克服するように励ました。1年後、彼女の努力は報いられた。江蘇省女子シッティングバレーボールチームは全国身障者スポーツ大会で優勝したのである。試合が終わるとすぐに、盛玉紅は中国女子シッティングバレーボールチームに移り、コーチ兼エースアタッカーとなった。目標はアテネ・パラリンピックであった。

アテネ・パラリンピックで、盛玉紅は成功を収めた。23年間の奮闘努力のすえ獲得した金メダルを見ながら、彼女は「パラリンピックの魅力は、がんばって努力しさえすれば、必ず成果を得られるところにある」とつぶやいた。

あれから4年、37歳になった盛玉紅は、チームの選手たちとともに北京パラリンピックに向け、ラストスパートをかけている。祖国で開催されたオリンピックの競技会場で、自分の夢を完結させるために。

 

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