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アテネパラリンピック男子100mバタフライで、1分05秒20の世界新で優勝した王暁福(新華社) |
表彰台で観客に感謝の気持ちを示す王暁福。彼はアテネで金メダルを3個獲得し、世界新記録を3マークした(新華社) |
20歳の若者、王暁福は、中国身障者水泳チームのリーダーで、すばらしい戦績を残している。世界や中国国内の多くの身障者水泳競技会で、彼は30回以上1位となり、10回以上世界記録を更新した。とくに2004年のアテネ・パラリンピックでは、16歳にもならない彼1人で金メダル3、銀メダル1、銅メダル1を獲得し、メディアは「暁福が嵐を巻き起こした」と報じた。
1988年、王暁福は雲南省玉渓市の貧しい農民の家に生まれた。6歳のころ、高圧電線に触れる事故にあい、右腕を失った。人々が「かわいそうに」と言う中で、彼の母が「やる気さえあれば、片腕でも両手の人に劣ることはない」と言ったのを王暁福は今でもはっきり覚えている。
彼が13歳になったころ、雲南省身障者連合会の人がスポーツ選手を選抜するため彼の故郷にやってきた。そして手足が大きく、背が高い王暁福は選抜されて、昆明市で水泳の集団トレーニングに参加した。わずか1年間の訓練で、彼の成績は、すでに4年間、系統的なトレーニングを受けた健常者の選手のレベルに達していた。コーチは「この子には先天的な資質に恵まれ、理解力が高い。試合に出れば、必ずメダルをとるだろう」と評価した。
2002年、14歳の王暁福はアルゼンチンで開かれた世界身障者水泳選手権大会に初めて参加し、一挙に5つの金メダルを獲得し、3つの世界記録も樹立した。しかし、花束を贈られ、賞賛の声があがる中で、彼はだんだんおごり高ぶるようになり、トレーニングに専念せず、コンピューターゲームに夢中になり、コーチとも衝突するようになった。彼の成績は下がり始め、一番自信のある100メートル自由形で、意外にも決勝にさえ進めなかったこともある。
失望と後悔、悩みと納得できない気持ちが交錯し、王暁福の心はかき乱された。深い谷底に落ちるか、それとももう一度奮起するかという肝心なときに、コーチは彼に「お母さんの願いを忘れてはいけない」と言った。この言葉で彼は目が覚めた。王暁福は再びプールに戻り、全身全霊でトレーニングに打ち込み、自信を取り戻した。2年後、アテネ・パラリンピックで、優勝の表彰台から下りた時、彼は「母とコーチのおかげで、不幸の私は幸せを手にすることができました」と言った。
4年前、王暁福は中国で唯一のアテネ・パラリンピック聖火リレーランナーとして、エーゲ海の海辺を走った。今、北京パラリンピックの開催を前に、彼が聖火台に点火するのではないかと聞かれ、彼ははにかんで「そんな過分な望みは持っていません」と答えたが、これから行われる水泳のレースの話になると、この若者は自信満々、こう答えた。「準備はすでにできています」
2008年7月17日、北京パラリンピックに参加する332名の中国の身障者選手を含む中国の代表団名簿が公表された。これは中国が1984年にパラリンピックに参加して以来、もっとも大きな代表団である。このうち、最年長の選手は51歳で、最年少の選手は15歳。馬術、ウィルチェアーラグビー、車椅子バスケットボール、ボート、セーリング、視覚障害者サッカーを含む20種目に参加する。選手の80%以上が今回初めてパラリンピックに参加する。多くはアマチュアの選手だが、彼らには1つの共通の夢がある。それは「北京パラリンピックの表彰台に登りたい」という夢である。
人民中国インターネット版
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