北京2008年パラリンピック開幕式で、中国身障者芸術団の歌手(視覚障害者)楊海涛さんが歌った『天国』という歌が、「鳥の巣」(国家スタジアム)から夜空を伝わって世界じゅうに響き渡り、会場を埋めた9万余人の観客の心をゆさぶり、テレビ前の世界じゅうの視聴者の胸を打った。
「会場の雰囲気を肌で感じ取り、私をますます燃え上がらせました」
北京パラリンピック競技大会の開幕式は暖かさに満ちた、感動的な編成で世界じゅうの視聴者の胸を打ち、なかでも、楊海涛さんが歌った『天国』という歌は更に好評を博した。国内外の記者たちの取材を受けた際、「楊海涛さん、パラリンピック開幕式のような世界じゅうに注目される場で歌い、緊張したでしょう」という記者の質問に、楊海涛さんは「私は緊張はしなかったです。これまでに一度も緊張したことはありません。私はみんなに自分の歌を聞いてもらい、最もすばらしい歌声をみんなにプレゼントすることしか考えていませんでした」とはっきりと語った。
開会式の日の夜、楊海涛さんは早めに「鳥の巣」に到着し、雰囲気を肌で感じ取り、そうすることでさらによく歌いレベルを発揮できるよう努めた。彼にとっての大切な時間がやっと訪れた。「鳥の巣」の真中に立って、楊さんはすばらしい歌声で『天国』を歌い、観客たちを魅了した。楊さんは「もしも自分に3日間でも光を与えてくれるなら、私が最も目にしたいのは――お父さん、お母さんと皆さんです」としみじみと語った時、その場にいた多くの人たちの目にはすでに感激の涙でいっぱいだった……。
「自分の歌には一応しており、外国語を覚えるのはまったく深夜における暗記に頼る以外にありませんでした」
開幕式で『天国』を歌った時、楊海涛さんが加えて歌った英語の歌詞について、多くの外国人観客は発音がまったくすばらしく、ニュースのアナウンサー以上だったとほめた。
開幕式における自分の歌について、楊さんは「思ったとおりに歌えて、一応満足しています」と謙虚に語った。
事実、彼はその夜の最も光り輝くスターの1人であった。そのすばらしい英語とさまざまな言葉で歌えたのは、人の見えないところで苦労し、たゆまぬ努力を払ったたまものである。外国語で完全に歌いこなすため、楊海涛さんの努力は並大抵のものではなかった。視覚障害のため、聞くことに頼るしかなかった。昼間は人の声がざわざわしているため、静けさに満ちた深夜に、一人でテープ・レコーダーのスイチを入れて、くり返して注意深く発音に耳を傾け、丁寧にすべての音節とニュアンスをつかみ取り、さらには1つの単語、1つの単語と心に刻み込むように覚えた。数え切れないぐらいの深夜における奮励によって、楊さんはなみなみならぬ感動を世界にもたらした――
台湾では、彼の福建省南部の方言で歌った『一生懸命に頑張れれば、勝利は間違いなし』は、福建省南部生まれの歌手ではと思わせた。
韓国で、韓国語で『友達』を歌った時、「この歌手は中国の朝鮮族の人ですか」と驚いて尋ねた人もいた。
スイスでは、地元の名曲『アルプス山のバラ』を歌った。この歌の作曲者は楊さんがこの歌をうたうことを聞いて、わざわざ会場に駆けつけ、自ら伴奏した。公演が終わった後、この作曲者は楊さんの手を握って、「あなたの美しい歌声とすばらしい現地の歌の発音に驚き、これは神様からの私達へのプレゼントです」と語った。
7年このかた、代表団に随行して五大陸の30余カ国と地域を訪問し、さまざまな言葉で地元の名曲を歌い、観衆たちはその驚くべき記憶力と模倣能力にすごい、すばらしいと喝采した……
光のない世界の中の明るい心の持ち主である歌手
楊さんは光のない世界の中の明るい心を持った歌手である。記者との対話の中では、ずっとほほえみを浮かべ、その歌声のように人々を感動させ、人々はその言葉から生命に対する賛美と人生の苦難に対し明るく立ち向かう姿を感じ取った。
先天的な失明が楊さんを光のない世界に突き落としたが、その心は光と明るさに満ちている。幼い時から音楽が好きだった楊さんは生まれつきの歌の天才と言ってもよい。11歳の時にすでに全国身障者芸術コンクールで受賞した。生計をはかるため、小学校卒業の後に職業学校でマッサージの勉強をし、18歳の時にマッサージの技能に頼って、働きながら自活し、声楽の勉強を続けた。
今日の楊さんは、天津市視覚障害者学校でマッサージの勉強をさらに続ける一方で、中国身障者芸術団とともにほかの地方や、外国に行って公演し、充実した、幸せな生活を送っている。
「チャイナネット」2008年9月11日
|