北京五輪に参加した各国の選手たちは、「より速く、より高く、より強く」というオリンピック精神を体現し、オリンピックの持つ「進歩と平和」の深意を世界に伝えた。開催中の16日間、競技会場では302個の金メダルが授与されただけでなく、私たちの心を揺さぶるシーンが多く生まれた。選手たちの努力とスポーツマンシップに敬意を表したい。(文中敬称略)
ママはやっぱり強かった
|
柔道女子52キロ級で連覇を成し遂げた中国の冼東妹(新華社) | 女子柔道52キロ級の冼東妹(33歳)はアテネ五輪に続く2連覇を達成し、中国初の「ママさん金メダリスト」になった。
広東省出身の冼は1990年に柔道を始めた。これまで国内外の大会で何度も優勝し、2004年にはアテネ五輪で金メダルに輝いた。その後、30歳で一時引退したものの、07年、ママとなって現役に復帰した。
中国では、出産してから再び現役に戻る選手は多くない。とくに柔道のように激しいスポーツでは、まれに見るケースだ。冼は自分自身に挑戦したかったのだという。娘がまだ4カ月のときに離乳し、合宿練習のために家を離れて北京へ向かった。
「この金メダルは並々ならぬ努力の賜物です。彼女が中国チームに復帰した時、体重が十数キロも増えていた。そこで、体の機能を回復するために、非常に努力しました」と冼のコーチは話す。今回金メダルを獲得したことで、自分はまだできるということを証明しただけでなく、娘にすばらしいプレゼントを贈ることができたと、冼は喜んでいる。
日本女子柔道の谷亮子もママさん選手の一人だ。世界選手権やオリンピックで何度も優勝経験のある谷は、残念ながら銅メダルに終わったが、敗北の憂いは見せなかった。「5回もオリンピックに出場できました。しかも毎回メダルを取っています。たくさんの方々のサポートがあってこそだと、感謝しています」
「祖国よ、こんにちは」
|
フェンシングの女子フルーレに出場したカナダ代表の欒菊傑。50歳で、フェンシングの選手の中で最高齢(新華社) | 1回戦に勝利したフェンシングカナダ代表の欒菊傑(50歳)は観客の拍手の中、マスクを脱いで「祖国好!」(祖国よ、こんにちは)と書かれた赤い布を広げた。この一幕に多くの観客は感激して涙を流した。そしてその場にいた観客すべてが立ち上がり、1984年のロサンゼルス五輪に中国代表として出場し、金メダルを勝ち取った英雄に、大きな拍手と喝采を送った。
欒はロサンゼルス五輪後カナダへ行き、コーチとしてフェンシングの普及や技術向上に力を尽くしてきた。今後は、上海浦東に「欒菊傑フェンシング学校」を創設する予定で、中国でのフェンシング普及に努めたいと話す。
欒は第2試合で敗退したが、彼女の登場は中国人選手の心を奮い立たせた。フランス人コーチのクリスチャンバウアーの指導のもと、中国代表の仲満は次々と勝利し、男子サーブル個人で優勝した。中国フェンシングチームは欒の金メダル以来、まさに24年ぶりの金メダルを獲得したのだ。
選手の間に戦はない
オリンピックが開幕したその日、ロシア・グルジア間の緊張が一気に高まった。しかし北京五輪では、両国の選手や観客たちは政治的関係には構わず、試合だけに気持ちを集中させた。
女子ビーチバレーで対戦した両国の選手は、いつも通り抱擁を交わしてから試合に挑んだ。試合終了後、敗北したロシアの選手は、グルジアの選手に両手を差し出し、勝利を称えた。そして、「負けたことは悔しいですが、グルジアチームのプレーはすばらしかった」と語った。両国間の争いについては、「私はもちろん平和を願っています。関係のないことで試合に影響が出ることがないよう望んでいます」と話した。
ロシアとグルジアの選手は、自分たちの行動をもってオリンピックの精神と価値を体現した。
前人未到の快挙「8冠」
|
北京五輪で8個の金メダルを獲得し、オリンピックの記録を更新した米国のフェルプス(新華社) | 注目の競泳選手フェルプス(米国)は前回のアテネ大会で8冠に挑戦したが、達成できなかった。北京五輪の目標ももちろん8冠。結果、7種目で世界記録を更新し、8個の金メダルを獲得。前人未到の快挙である1大会8冠を達成した。また、オリンピックの金メダルは通算14個で、史上最多の選手となった。
8個の金メダルのうち3個はリレーで獲得したものだ。チームメートと力を合わせなければ目標を達成することはできなかった。フェルプスは試合後、「彼らのおかげで夢が実現した。僕たちのチームワークの良さを見せることができた。このチームの1員になれて本当によかった」と仲間に感謝した。
金より重い銀メダル
中国競泳チームは北京五輪で、金メダルより重い銀メダルを獲得した。張琳(21歳)が男子400メートル自由形で獲得した銀メダル、中国男子競泳にとって初のオリンピックメダルである。
北京出身の張は、13歳で北京競泳チームに入団。プロの競泳選手となった。
北京五輪の準備のため、去年11月にコーチといっしょにオーストラリアに渡り、そこで8週間にわたる「地獄の特訓」を受けた。張にトレーニングを授けたのは、自由形王者のハケット(オーストラリア)をかつて指導していたデニスコーチ。子どものころからずっと国内で練習をしてきた張は、始めはデニスコーチの練習に慣れることができなかった。しかし次第に先天的な才能を発揮し、急速に進歩した。
今年2月に行われた「好運北京中国水泳オープン」では、初めて3分46秒台をマークし、自分が保持していた400メートル自由形の中国記録を4秒近く縮めた。そして4月には3分45秒台をマーク。再び中国記録を更新した。その後、オーストラリアで3カ月の集中トレーニングを受け、技術と力をさらに磨いた。そして北京五輪。ずっしりと重い銀メダルを勝ち取った。
記録破りの「平泳ぎの王」
|
競泳男子100m平泳ぎの決勝戦で58.91秒の世界新記録で優勝した日本の北島康介(新華社) | 日本競泳界のエースである北島康介は、中国では「蛙王」(平泳ぎの王)と呼び称えられている。その名に恥じず、100メートル平泳ぎでは長年のライバル、ハンセン(米国)が2年間保持していた世界記録を破り、金メダルに輝いた。
北島とハンセンは実力が拮抗するよきライバルである。両者はこれまで、代わる代わる平泳ぎの覇者となってきた。しかし今年、ハンセンはあまり調子が出ず、200メートルの五輪出場資格を得られなかった。100メートルも出場したものの4位に終わった。一方の北島は、100メートルで世界新を出した後、200メートルでも五輪記録を更新して2冠を達成した。
100メートル決勝が終わった後、ハンセンは北島に近寄り、彼を祝福した。「北島はチャンピオンにふさわしい」と語り、自分も再起して世界記録を奪回したいと意気込んだ。
癌にも己にも負けず
米国水泳チームのシャントー(24歳)は今年6月、北京五輪米国代表選考会の前に癌と診断された。彼はこれを公表せず、選考会出場を決断。そして、200メートル平泳ぎの出場資格を手にした。北京五輪に出場するため、手術は先送りにした。
200メートル平泳ぎの準決勝では、観客はシャントーの名前を叫び、彼の勇気と強靭さに拍手を送った。ベスト8には入らなかったものの、私たちは、白いスイミングキャップをかぶったハンサムなアメリカンボーイを決して忘れることはないだろう。
オリンピックの後は、命に関わる大きな闘いが待ち受ける。「今なら全力でこの闘いに身を投じられる。水泳の試合と同じように、一生懸命病魔と闘い、必ず勝って見せます」
「体操中国」の時代再来
|
シドニー五輪から8年の努力が実って、再び体操男子団体総合の金メダルに輝いた中国男子体操チーム(新華社) | 中国男子体操チームが団体総合で再び金メダルに輝いた。
1997年から2000年まで、ワールドカップ、世界選手権、オリンピックの団体総合優勝をすべてさらってきた中国男子体操チーム。しかしアテネ五輪では5位と、ロサンゼルス五輪以来最低の成績に終わった。
アテネで屈辱の敗北を喫した後、主力選手の楊威と黄旭は引退を考えた。李小鵬も病気やケガのために練習ができなかった。こういった危機的な状況の中、体操チームの関係者やコーチたちは選手たちと腹を割って話し合い、敗北の原因と彼らの優位点を分析し、みんなでもう一度夢を実現しようと励ました。
このときから、練習場には「臥薪嘗胆」「ゼロからスタート」という言葉が掲げられた。選手たちは4年間、苦しい練習に耐えた。彼らの心理状態は大きく変わり、努力を続けなければ最高の成績は得られないことを知った。そして最終的に、絶対的な実力と圧倒的な優勢で、再びチャンピオンの座についた。
絶対にあきらめない
男子重量挙げ69キロ級の試合で、アテネ五輪の銀メダリスト、韓国の李培永(イ・ベヨン)は3回連続で失敗した。1回目のトライで突然左足がけいれんし、その後右足も引きつった。しかしあきらめようとしなかった。「チャンスがある限り、最後までトライしないと、人生最大の後悔をすることになります。今、僕は全力を尽くしました。後悔することは何もありません」
李がトライに失敗して立ち上がった時、会場には割れんばかりの拍手と喝采が沸き起こった。李は微笑みながら観客に手を振って応え、足を引きずりながらステージから去っていった。0809
人民中国インターネット版 2008年9月16日
|