大雁塔
新年には長安左右街七大寺に対して、1カ月間経文講話を開くべしという勅令が発せられた。円仁は法華経の講話に出席した。首都ではまた、仏陀の遺物を供養する儀式も行われた。円仁は大慈恩寺で伝法灌頂の称号を授けられた。これは密教を説く一種の資格免許状である。儀式では、5瓶の聖水が円仁の頭上に注がれた。その後で大雁塔の頂に上ったところを見ると、彼はこの日を吉日と喜んでいたに違いない。
玄奘三蔵供養の儀式
唐代の作法に従い、一人の僧が跪いて頭を垂れ、一連の秘儀の印を結んだ後、聖水を満たした小さな杯を捧げた。これは、偉大な中国僧であり旅行家でもあった玄奘三蔵を記念して大慈恩寺で行われた密教儀式である。
円仁もまた、師の像の前で頭を垂れたことであろう。玄奘三蔵の翻訳した経典は、日本における仏教の重要な基盤となった。長安に滞在中、できるだけ多くの新訳仏典を筆写するのも、円仁の使命の一つであった。円仁は、こうした書物を大量に収蔵する慈恩寺の宝庫を活用した。
日中の僧の友好交歓会
大慈恩寺住職の増勤和尚ほか2名の僧が、奈良薬師寺住職安田瑛胤師ならびに山田法胤師、村上太胤師を迎えた。2002年、一同は大雁塔の前に集い、日中国交回復30周年を祝うとともに、玄奘三蔵の偉大な業績に敬意を表した。これは両国仏教界の長い交流の伝統を確認する儀式でもあった。
小雁塔
私が、この風雪に耐えた塔を初めてみたのは1983年、当時は塔の傍らの泥道に干草の束が干してあった。次は2002年で、その時は塔に隣接するホテルの屋上から写真を撮ったのだが、塔は近代都市の中に埋もれたようにみえた。
円仁日記によると、長安7大寺に対して1カ月間経文講話を開くようにという新年の勅令が発せられた。また釈尊の遺牙をあがめて供物が捧げられ、儀式がとり行われた。当時、長安には4本の遺牙があった。またシルクロードを通って、インド、ホータン、チベット等からさまざまな聖遺物がこの都にもたらされた、と円仁は述べている。彼は、小雁塔で知られる薦福寺で行われた仏牙会の読経に参加している。
興教寺の玄奘舎利塔
常明和尚(85歳)が玄奘三蔵の遺物を納めた舎利塔の前で供養を主宰している。聖遺物の前で行われる儀式は、円仁の「食物、珍しい果物や花、多種の香を供えた」という言葉を思い出させる。
唐の天壇遺跡
841年は、例年通り天壇に行幸する天子の行列で明けた。現在天壇遺跡は、西安師範大学北側にあるバスケットボール場の傍の、雑草の生えた小山に過ぎない。10人以上もの皇帝がここに参拝して国家の儀式を行ったとは信じがたい場所である。
841年旧暦1月8日の円仁日記には、「左右の禁衛軍20万が天子に付き従った」とある。私は、2人のバスケットボール選手の写真を撮った。
唐の明徳門跡地
大明徳門は、唐の都長安の南の正門であった。円仁日記には、皇帝は威風堂々の行列を従えてこの門を通ったとある。跡地は今では市場の裏手にあたる。少し高くなった地面に17台のビリヤード台が並び、夏の夜には市民の息抜きの場所として人気がある。
私は、円仁がここに来たときにはどんな様子であったか知りたくなり、近くのアパートの屋上に上ってみた。立地のよいその場所から眺めると、東の方、市場の向こうに幅広の空地があり、公園として使われていた。それは間違いなく明徳門から延びていた唐代の城壁の幅であった。
石の台座の文様(清真寺)
西安のモスク内にあるこの石の台座の文様は、唐代からの遺産である。小さな丸いこぶ状の飾りはペルシャの真珠をモチーフにしている。葉、葡萄のつる、花模様はすべてシルクロード文化を伝承したものだ。これらは、唐代における異文化の影響を伝えるほんの一例に過ぎない。モスクの中に入ると、空気は静まりかえり、唐の長安の雰囲気をよく保っていた。
屋台のスイカ(明徳門遺跡の近くで)
桃、アーモンド、ハスの実といった多種多様な食物も、シルクロードを通って長安にもたらされた。スイカは中国語で「西の瓜」と呼ばれる。恐らくペルシャ原産であろう。
841年旧暦5月の円仁日記には、「よく熟したうまい瓜を食べた」というくだりがある。
イスラム料理
今でも西安には、エスニックの性格を保っている場所がある。イスラム料理店のオーナー烏志興さんは、数世紀にわたって自分の家系で受け継がれてきた、スパイスの効いた肉団子シチューのレシピで料理を続けている。内容豊かでとろりとしたシチューは、隣で売っている焼き餅を添えると、すばらしい朝食になる。しかも安い! 5人分でたった6元(90円)だ。0808
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阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『今よみがえる唐代中国の旅 円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』(ランダムハウス講談社)にまとめた。5洲伝播出版社からも同著の英語版、中国語版、日本語版が出版されている。
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人民中国インターネット版 2008年9月22日
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