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1984年静岡県うまれ。現在、日本国費留学生として、北京大学国際関係学院に在籍。学業の傍ら、中国のメディアで、コラムニスト、コメンテーターを務める。『七日談~民間からの日中対話録』(共著、新華出版社) |
北京五輪の全日程が終了した。7月20日から9月20日までの「五輪期間」も終わりを告げ、北京の街は日常の姿に戻ろうとしている。マラソンコースや卓球会場に設定されていた北京大学も、自由に出入りができるようになった。「五輪は本当に終わったんだな……」。少し寂しい気もする。
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私は2003年に北京に来た。中国留学を決める上で、「北京五輪」がインセンティブの一つだった。この5年間、北京の街は大きく変わった。道路が広くなり、公共トイレはきれいになった。個人の車が増えて、自転車に乗る人が減った。地下鉄が整備されて、交通は便利になった。高層ビルが建設され、見栄えが良くなった。
北京の人々も大きく変わった。公共の場で列に割り込む人が減り、並ぶ人が増えた。信号無視をする人が減った。地下鉄の中は、新聞を読む人、席を譲る人が増え、静かになった。これらの変化は、政府当局の公共政策に由来するし、また国民全体の素質も五輪を通して高まっている結果ともいえるだろう。
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北京で五輪をウォッチする過程で、特に印象に残ったことが三つある。
まずは、北京五輪が安全に、スムーズに進んだことである。政府は当初からテロリズムを含めたセキュリティー面、中国人観客のマナーの問題、外国人旅行客の動向などさまざまな側面を考慮し、念入りに準備を進めていたが、多くの国内外関係者の不安や懸念とは裏腹に、会場や街が無秩序に陥るような事態は起こらなかった。当局のガバナンス能力は確かに証明されたといえる。
次に、五輪の円滑な運営を支えたボランティアの存在である。五輪期間におけるボランティアは「会場」「社会」「治安」の三種類に分かれており、合計150万人を超える。つまり、北京市民約5人に1人が五輪ボランティアということだ。実際、五輪期間中、会場や街はボランティアでいっぱいだった。あらゆる場所にボランティアの詰め所が設けられ、言葉、道案内、トラブルシューティングなどさまざまなサービスを提供していた。彼ら・彼女らは、国内外からの観光客に対して、笑顔で暖かく接していた。
私の周りにも、「祖国開催の五輪を成功させるため、私も何かをしたい」という強い意志を持って、自主的に参加した友人がたくさんいる。ボランティアの中核となった大学生たちは、学業の傍ら、半年以上に及ぶトレーニング・研修を受講し、万全の体制で本番に備えていた。ボランティアこそ、北京五輪を成功に導いた「影の立役者」といえるだろう。
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7月1日から10月8日まで、北京市内には550以上の詰め所が設けられ、約40万以上のボランティアがさまざまなサービスを提供した(新華社) |
最後に、中国チームの成績である。8月23日の夜、私は某テレビの教育問題に関するトーク番組に出演した。五輪期間中の収録(8月31日夜放送)であった。番組終了直前、キャスターが「本番組収録を終えようとしている今、中国チームは50個の金メダルを獲得しようとしています。これは中華民族の歴史におけるマイルストーンといえるでしょう!」と言って締めくくった。
収録当時、中国の金メダル獲得数は49個。最終日にメダルが取れそうな種目はボクシングくらいしかない。言葉にはしなかったが、「50個って言い切って大丈夫なのか、仮に取れなかったらどうするんだろう」と内心思った。
結果は、私の杞憂に終わった。金メダルは51個、メダル総数は百個に達した。テレビで閉会式を見ながら、最後は国民の勢いが選手の背中を押したのかなあ、と思いにふけった。
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今回、中華民族の「底力」を改めて実感させられた。政府、ボランティア、選手を含めて、多くの中国人が、真夏の北京で流した汗にエールを送りたい。
中国は、北京五輪を安全に終わらせるべくして終わらせた。最多数の金メダルを取るべくして取った。これらの業績を「挙国体制」という言葉で揶揄する見方もあるが、私は、評価に値する業績は、素直に評価されるべきだと考える。
その上で、中国には、「ポスト五輪」という新たなスタートラインに立ってほしい。さらなる目標に突き進んでほしい。北京五輪は、中国にとって、ゴールではなく通過点であり、中国がこれからどう変わるかを注目したい。(0810)
人民中国インターネット版 2008年10月28日
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