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京劇で使われる周倉の隈取り 趙永祺 作 | 『三国志演義』において、「単騎で千里を走る」途中で関羽が受け入れた大将が周倉である。巻き髭をたくわえ、両腕は千斤の力、「韋駄天」と言われるほど非常に足が速かったという。
貧しい家庭に生まれた周倉は、若いころには塩の密売をしていた。後漢(25~220年)末、天下は大いに乱れていた。山西平陸で旗揚げして一揆を起こした周倉は、黄巾義軍に入隊し、悪事で財をなした者から金品を奪い、貧しい人々を救済した。やがて関羽の威名を慕って帰順した周倉は、片時も関羽の側を離れず、果敢に幾多の戦場を駆けめぐり、数々の戦功を立てた。関羽が一振りの刀のみ身につけて臨んだ、後にいう「単刀会」にも従者として同席し、その後も関羽と共に荊州を守った。関羽が樊城を水攻めし、魏の七軍を破った時、周倉は曹操の大将であるナモ徳を生け捕った。のちに関羽が麦城まで敗退し、孫権に殺されると、周倉は後を追って自殺したため「天下第一忠心を尽くす人」と呼ばれ、「武烈侯」や「忠義勇公」などの封号も与えられた。
実際には史実に周倉の名の記載はなく、関羽の忠義や武勇による魅力を際立たせるために小説の中で創作された架空の人物である。関羽に対する崇拝が高まるにつれ、周倉の地位も次第に高まった。各地の関帝廟には関羽像の側に必ず青竜偃月刀を手にした周倉の像が祀られている。伝統劇の舞台でも、関羽が登場する際には必ず周倉が側にいる。
今回の隈取りは、京劇『単刀会』の中で名優・銭金福が周倉に扮する時に使用した隈取りを模して作られた。頭に戴いた「八角冠」は「倒纓盔」ともいう。 ( 写真・文 魯忠民)
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