庶民の言葉で交流できる日中関係を築こう

加藤紘一 日中友好協会会長に聞く

加藤紘一
聞き手  于 文 本誌東京支局長

と き 2008年8月18日

ところ 東京・衆議院議員会館

――先月、駐日中国大使館が主催した四川大地震被災地支援に感謝する集いが開かれました。その席上、先生は中国青年代表団の団員として来日した大地震被災地の中高生と中国語で交流されていましたが、先生の流暢な中国語に感動しました。先生と中国とのご縁はいつからでしょうか。

加藤紘一会長(以下加藤と略す) 外務省に入ってすぐに、専門をどこにしたいかと聞かれましたので、「中国にしたい」と言いました。その結果、多くの同僚はワシントン、ロンドン、パリなどへ研修のため現地に赴きましたが、当時、中国は国交が正常化していなかったため私は北京へは行けず、台北で中国語の研修をすることになりました。いろいろな人から「外交官になったのなら、研修先はロンドンかワシントンだろうに、なぜ台湾へ」と尋ねられましたが、私は、これからの日本の外交にとって、いちばん難しく、また一番やり甲斐のある仕事は日中関係だと思っていましたので「ぜひ中国語を勉強したい」と強く望んでいたのです。傍目には「変な人だ」「変わっているな」と言われましたね。

対外関係というのは、貿易や観光、文化交流などがスムーズに進んでいるときは、経産省や国交省、文科省の部署がになう。ところが一転、政治的に難しくなると、外交上それをうまく処理するための外交官が欠かせない。私が中国関係を選んだのも、そうした考えからです。 ――そうした決断をされた背景には、何があったのですか。

加藤 決断には三つの理由がありました。

私の大学在学時には、日米安保条約改定をめぐって学生運動の大きな高まりがありました。この運動はなぜ起こったのか。多くの学生は、実は日米安保条約の条文さえあまり読んでいなかったのです。左翼運動に刺激された人も多くいましたが、彼らのほとんどが『資本論』を最後まで読んでいなかった。やはり、日本という国を、過ちのない方向にもっていきたいという純粋なナショナル・インタレスト、真の国益を考えた運動だったと思います。

学生たちのエネルギーはアジア重視に向かっていったと思われてなりません。私は、アジアで将来もっとも影響力を持つのは日本と中国だと思いました。両国関係に差し支えがあると、アジアの安定もないし、世界の安定もないだろうというふうに思った。これが中国を選んだ第一の理由です。

もう一つは、当時、日本の貿易の4割ぐらいは米国との貿易で占められ、日本と米国は運命共同体になっていました。大学で私を指導してくださっていた教授は、将来、中国との貿易が日本の貿易の3割を超すと、中国と日本は運命共同体になると言われ、その時に、冷静な良い関係、相互依存、相互尊重の日中関係にもっていけるようにしなくてはいけないと話されたのです。経済面から言っても、日中関係が重要だと教えられました。

それから、もう一つは個人的なことですが、高校、大学と同級生だった親友が外交官の息子で、自分は父親のように外交官になって、ソ連問題、日ソ関係を扱いたい、いっしょに外務省に入って、君は日中問題をやらないかと。二人で日本の中ソの外交を構想できる立場になろうと言われた。「よし、やろう」と答えました。親友はその二年後に、赴任先のベルリンで自殺してしまった。その親友の分まで頑張らなければならないとの思いは今でも変わりません。 ――先生が言われた大切な中日関係は、この30年間の紆余曲折を経て今日に至りましたが、先生は、「改革・開放」30周年、『平和友好条約』締結30周年までの道のりをどう評価されていますか。

加藤 たしかに紆余曲折があったけれど、大所高所から見るなら、順調に発展してきたと思います。この30年間、日中関係は初歩的な段階から出発して、代々の両国の政治家が一生懸命に拡大・発展に向けた努力を重ねてきました。1990年代に入って、特に鄧小平氏の「南巡講話」以後、経済発展が要になると、民間の経済界の方々に任せておけば、順調に進むとの安心感がありました。ところが、この7、8年、だいぶ緊張感が高まってきています。

日本はといえば、90年代の初頭から、国自体に発展の目標となるべき指針が見えなくなってきた。明治維新では富国強兵・殖産興業を掲げ、欧米のように豊かになることを目標にし、戦後は平和憲法の下で経済復興と諸産業の発展に全力を傾けて来ました。しかし米国人の家庭よりも良い自動車やカラーテレビを持つようになって、目標達成感は満足させられたかも知れないが、その次に日本は何を目標に頑張るのかという指針の設定ができずにいる。

キャッチアップから自分自身の価値に基づく国づくりの目標への転換は、どの国でも難しいと思います。いずれ中国もインドも、その悩みを持つようになるでしょうが、アジアでは日本が一番先に直面したのです。「日本人とは」「日本とは」という問い、そして我々日本人は「何のために働くのか」「我々の追求する真の豊かさとは何なのか」ということを今みんなで探し求めていますが、なかなか答えが出ない。

しかし、中国には今、日本や米国のような高い水準にもっていくという発展途上の勢いがある。それを見て、日本人は、若者のエネルギーをうらやむ大人のような気持ちになっています。中国の経済は高度成長を続け、世界の工場とまで言われるようになった。GNPも、日本は500兆円くらいですが、中国も350兆円くらいにまで大きくなってきている。特に近年の急激な伸びからいって、中国経済がやがて日本を呑み込むのじゃないかという圧迫感を日本人に与え始めたことから、緊張感が高まってきたと私は分析しています。オリンピックにしても、中国は勢いがあって、開会式も見事だなーと、誰もが感心しました。うらやましかったのでしょう。

実は1964年の東京オリンピックの当時、日本も同じように勢いがあったのです。だから、他人をうらやましがるのではなく、自分自身を見つめなおして、日本人のアイデンティティーをみんなで議論していくことのほうが重要なのです。

日中間でもめる要因が潜在的に大きくなると、単なる経済交流では事は済まず、政治家同士が国と国のあり方について真剣に語りあうことが再び必要になりました。それは、一面では関係の成熟を意味するものでもあります。そういう30年間の流れだと思います。 ――先生は1974年に初めて中国に行かれたそうですが、昨年8月には中日友好都市小学生卓球交歓大会の日本側代表団団長として北京を訪れていらっしゃいます。長い歳月、中国を見つめつづけてこられました。変貌しつづける中国に対して、具体的にどんな印象をお持ちでしょうか。

大地震被災地の中高生と交流する加藤紘一会長(左から3人目)

加藤 それは、やはり北京も上海も都市の姿が大きく変わったことです。街のシルエットがすっかり変わってしまった。テレビのチャンネルにしても回しきれないほどに増えた。それで、北京の静かな「小巷子」(横町)が消えてしまったようで、ちょっと寂しく思います。

とりわけ印象深いのは、街を歩く若者のファッションが自由になったことでしょうか。それと一人一人が自由にものを言えるようになったこと。昔は、政治家だと分かると、中国の方は二人でないと話に来ませんでした。今は一人でも自由に、それも堂々とやって来ます。

また、自国の政治に対しても、指導者についても、意見や批判を自由に話すようになっている。たとえば、あの政治家は地味だけれども有能な人だ、あの指導者はやたらとしゃべり過ぎだとか、周恩来総理が懐かしいとか、さまざまに人物の評価をしますよ。それから、北京の本屋で、おもしろそうなのでつい買ってしまって今読んでいる『駐京辧主任』という本は、中国の行政機構の内部まで書いてあって、こうした本は、昔は出版できなかった。また、オリンピックの報道にしても充実いちじるしい。なによりも、中国は、普通の人々がとても元気になっていますね。 ――最後に、平山郁夫前会長の後任として日中友好協会の会長に就任された先生は、これからの中日関係をどういうふうに築いていけばいいとお考えでしょうか。

加藤 日本と中国は政治体制が違う国でしたから、付き合うのも一部の専門家に任された時代が続きました。付き合う人も、使う言葉も、普通の日本人とは異なった特殊な世界でした。それではいけない。血の通った人間同士、喜びも悲しみも心のままに語り合え、普通の市民の息遣いが感じられる言葉を使って付き合えるようにならなければいけない。

この間の四川汶川大地震の時に行った日本の緊急援助隊をテレビで見、新聞で知って、多くの中国の人々が感謝したということを、今度は日本人がネットやマスコミ報道で知って、あの時こそは、中国と中国人を身近に親しく感じたのです。遺体に黙祷を捧げ、敬礼して送り出すのは、日本ではごく当たり前のことですが、それに中国の人々が率直に感謝してくれたのを知って、日本人の誰もが胸にぐっときたのです。おそらく日中間のこの30年間で、日中両国民がいちばん近づいた瞬間だったのではないかと思います。このように、庶民同士、感じあったままを表現し合えるような日中関係を築いていけたら、と願っています。

今年は両国が国交正常化して36年、『平和友好条約』締結からでも30年です。そろそろ普通の言葉で交流できる日中関係になっていなければいけない、と思います。お互いに、苦しいところも分かりあえ、しゃべりあえる関係にまでしていかなければならない。それには乗り越えなければならないことが多くありますが、必ず乗り越えていかなければなりません。(写真提供は(社)日中友好協会・全国機関紙『日本と中国』編集部)(0811)

 

人民中国インターネット版 2008年12月2日

 


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