カントリー・ロード
四川大学 生命科学学院 陳一
それは、何の変哲も無い、小さな町だった。学校への道に大きな川があり、うっそうと茂る木々に覆われた寺がある以外は、これといった特徴もない。都会の喧騒からは遠く、こんじまりとした古い住宅街や商店街から少しだけ歩くと、畑が広がっていたりする、そんなところだった。
その静かな町で、私は彼女、ユウちゃんに出会った。
ユウちゃんは私より一つ年上で、小学校の図書委員だった。季節外れの転校生で、また外国人ということもあってクラスに馴染めず、それゆえ昼休みにはいつも図書室に篭っていた私とは、すぐ仲良くなった。
どこにでもある苗字と、「由美子」というこれまたよくある名前。彼女が、自分の名前で気に入っているのは “由”だけ、と言ったため、私は彼女を「ユウちゃん」と呼んでいた。そしてユウちゃんも、私の名前を日本語読みではなく、中国語で「いーちゃん」と呼んだ。
ユウちゃんは少し変わった女の子だった。当時流行していた遊びには興味を持たず、私と同じく、読書が大好きだった。特に日本の伝説や歴史に詳しく、沢山の事を教えてくれて、私が話す祖国の話も、楽しそうに聴いてくれた。
「いーちゃんは色んなところに行ってるんだね」ユウちゃんが羨ましそうに言った事がある。引越しと転校を繰り返していた私と違って、地元で生まれ育った彼女は、県内から出たことがない、と言っていた。
「大人になったら、どこにでも行けるよ」私がそういうと、「じゃあ、中国にも行ってみたい」と、彼女は目を輝かせた。
二人で歩く帰り道は、大抵そんな他愛ない会話で占められていた。ユウちゃんと一緒にいる時、私は、日本にいる間は常に意識させられていた国籍の違いを、まったく感じることがなかった。そうして、私達は小さな世界を共有していた。
「カントリー・ロード」という歌を教わったのも、ユウちゃんからだった。彼女はこの歌が好きで、よく口ずさんでいた。
「カントリー・ロード この道 ずっと行けば あの町に続いてる気がする」
伸びやかな歌声は静かな空に響き、私は、この帰り道が、いつまでも続けばいいと思った。
私がその町に住んでいたのは僅か一年足らずで、ユウちゃんと過ごした時間はもっと少なかったはずだ。けれど、一緒に歩いた川沿いの道は、きらきら光る川の流れや、真っ青な空に浮かぶ入道雲や、春の野花の香りに彩られ、大事な思い出として、今でも私の心にしまってある。それは、「故郷」と呼ぶにふさわしい、やさしくて懐かしい情景だった。
町を離れる日、ユウちゃんは駅まで見送りに来てくれた。元気でね、手紙を書くね、そんなやり取りの後、いつか大人になったら中国で会おうと、約束した。
それからほどなく、私は家族と共に七年間を過ごした日本を離れ、帰国した。住所が何度変わってもユウちゃんとの文通は続いていたが、それぞれの生活に追われる中で、手紙が届く間隔は次第に長くなっていった。私は勉強や日常に忙しく、日本で過ごした歳月は、まるで遠い夢のようにも思えた。電子メールを使ったやり取りが一般的になった頃には、年に一、二回、長いメールを送るだけになっていた。
そうして私は大学生になり、ユウちゃんが短大を卒業した後、地元の役所に就職したことを知った。お互い、大人になったんだなと思う同時に、かつての「中国で会う」という約束は、もう叶う事は無いだろうと、関係が薄れていくのというのは、こういうことなんだと、言い様の無い寂しさをおぼえた。
そして今年の5月、大地震が四川を襲った。当時の恐ろしさとショックは、今でも忘れられない。成都にある大学は幸いにも被害がほとんどなかったが、続く余震や混乱は私をひどく疲れさせ、そして心細くさせた。一週間程して、ようやく少し落ち着いた後、私は久しぶりに見たメールボックスに、四通のメールが届いているのを知った。
四通とも、ユウちゃんからだった。一通目は地震当日の夕方で、焦っていたのか短い文面で、私を案じる言葉と、無事なら連絡して欲しい旨が書かれていた。残りのメールはそれぞれ約二日の間隔をあけて送られていて、一通目とほぼ同じ内容だった。返信が無い事に彼女らしくもなく焦れて、思わず同じメールを送ったのだろう。遠い日本で、ユウちゃんは、私を真摯に心配してくれていた。
私は返事を打とうとして、目の前のモニターがぼやけている事に気づいた。突然溢れ出した涙は、連日の疲れでかさついた頬を濡らした。
ユウちゃんに会いたい、と思った。うれしさよりも懐かしさよりも、ただ、会いたかった。会って、どれだけ時が流れても、遠く離れていても、心は繋がっていると言う事を、伝えたかった。
涙を拭い、見上げた窓の外には、悲劇に似合わないほど住んだ青空が広がっている。まるで、私の心の故郷である、あの町の空の様な。
ふいに、あの歌が聴こえるような気がした。なつかしい町に続く道を歌った、「カントリー・ロード」が。
創作のインスピレーション
今年の夏、笹川杯作文コンクールへの参加を決めたものの、私は筆がなかなか進みませんでした。大学に入って以来、日本語から縁遠い生活をしていたことからくる不安もありましたが、何よりも、「日本を感知」するというキーワードは大きすぎて、そこから導き出されるものは、限られた文字数の中にはとても納まりきれない気がしたからです。
日本で過ごしたなつかしい日々のこと、お世話になった先生や仲のよかった友達のこと。忘れられない小説や、大好きなアーティスト、楽しかった旅行。
帰国してから考えた、日本が私に与えた影響や、日本と中国の関係や、今後の日中友好のためにできる事。
それから、四川の大地震のこと。日本の救助隊員が整列して被害者に黙祷をささげた場面をテレビで見て、友達と一緒にポロポロ泣いてしまいました。また、大学病院に行く際、日本の医療チームにも一言お礼を言いたいと言ったら、今まで日本があまり好きでは無かったルームメイトが、小さな梔子の花束を持たせてくれたことは、一生忘れられないでしょう。
このように、書きたいこと、書くべきことはたくさんあったので、当初はとりあえず、上記の様な、思い浮かべた事をひたすら書き連ねてみましたが、規定の文字数を三倍以上もオーバーしてしまったうえ、読みかえしてみて、どうもそれは私の文章ではなく、どこにでもある小賢しい大学生の書いた論文のような気がしたのです。どうやら、自分は客観的に日本について述べる事は、感情的にも、筆力的にも無理なようでした。第一稿はゴミ箱行きとなり、書き直すにあたって、私はもう一度、「日本」というものが、自分にとって何を意味するのかをよく考えてみました。
子供時代をほとんど日本で過ごした私にとって、日本は紛れもなく「第二の故郷」ですが、「故郷」という響きから私が真っ先に思い出すのは、ほんの短い時間を過ごした、小さな日本の町でした。おそらく、その町で過ごした、静かな、穏やかな日々と、大切な友人との思い出が、私の心をいつまでもその町にひきつけているのでしょう。
これを書こう、と私は決めました。偉そうに理屈を並べたり議論したりせず、私の中にある、私だけが感じた「日本」を書いてみよう、と。そうして、またも文字数制限に四苦八苦しながらも、前作とは比べ物にならないほど短時間で書きあげたのが、この作文です。自分の拙い日本語が評価されるとは思ってもいませんでしたが、こうして優勝できた事については、自分の日本への思いを肯定されたようでもあり、それを何よりもうれしく思っています。
今回の作文を書いて判った事は、日本は私にとって、論文の対象になるには、あまりにも思い入れがありすぎる、ということでした。私が今もって日本語を忘れていないように、私の中にある「日本」は、私の人格の一部となり、人生という川の流れに溶け込んでいくのだと、信じています。
人民中国インターネット版 2008年12月4日