紅 砂

中国人民大学大学院 王小蕾

大自然と平和の福音を伝える使者――遠山正瑛氏へ

列車は天水を過ぎると、窓の外の風景はますます荒れ果ててなってきた。まだまだ八月の末なのに、車内の気温はもう20度以下に下がった。半袖の僕は少し寒く感じた。

永遠に続いていくようなキャベツ畑はやっと麻痺した目から姿を消した。列車はトンネルを抜け続けるようになった。光と闇の繰り返しの中で、耳が痛くなった。僕はますます不安になってきた。

そしてキャンパスに着いたとたん僕の西部への幻想はとうとう水泡のように崩れてしまった。キャンパスの設備は大都市の大学とは変わらないが、キャンパスを囲んている黄土の山山には木らしい木が一本もなかった。ただ、だらしない高い高い土の山が元気もなさそうに、今にも泣きそうに立っているだけであった。僕はやっと気が付いた。今まで僕の中で描いた雄大且つ神秘な西部図は僕一人の片思いに過ぎない、今まで僕の西部への夢はただ観光客の好奇心とは変わらないぐらいのものしかなかった。夢が破れた僕は途方に暮れるようにやる気を失っていた。あの日まで。

あの日、偶然なきっかけで、僕は一人の日本人に出会った。この日本人は70歳の樹木医の清野先生である。

初めて清野先生に会った時、彼は肥料の山の前にしゃがみ、羊の糞を手で崩しながら、その粉末を夢中に見つけているところであった。僕たちの存在を気づいた清野先生は簡単な挨拶の後、自分がやっている仕事を私たちに説明した。「蘭州での造林は今年が四年目ですね。去年は南山で旱魃と流砂に耐える植物を発見したんですね。紅砂(べにすな)と言う植物です。今私たちは市政府の援助の下で実験をやっているところです」と真面目な声であった。

なぜこの日本人の老人が黄土高原の造林にこんなに熱心なのか、僕は少し理解できなかった。すると僕は清野先生に聞いた。

「先生はどうして中国で造林を進めるのでしょうか?」

「ええ、それは一人の素晴らしい方の影響です」と清野先生はゆっくりと話始めた。「定年してからね、暇はどっさりと溢れてきて、如何しても慣れなかったですね。そして、偶然に日本で「砂漠の父」と呼ばれた遠山正瑛先生の講演を聴きました。もう92歳の遠山先生の姿を見たとたん、私はすごくショックを受けましたよ。あれはね、非常に痩せた体ですけど、なんかどこかで何でも乗り越えられるような力が潜んでいるような気がしました。遠山先生は自分の全財産を出して、内モンゴルの人々と一緒に砂漠の一部分を見事にオアシスにしましたよ。私は大変驚きました。それで、私も一度恩格貝に行きました。そこで遠山先生と一緒に三日ぐらい木を植えたのです。毎日10時間ですよ。ただの三日間で私はもうへたばったのですが、92歳の遠山先生はもう10年ぐらい続いたのですよ。強い信念を持つ人の生命力は本当に信じられないぐらい逞しいですね。その三日間私は一つのことが分かりました。それはね、地球のためのなら、一本の木を植えるほど意味深いことがないということです。遠山先生も「環境保護や平和などは口にする物ではない、そんな暇があったら、木を植えてください」と言った事がありますね。確かにそうと思います。木を植えるのはすごく簡単に見えますが、実はその単純作業は不思議な力がありますよ。緑があれば、希望が生まれますし、一緒に木を植える人たちはきっと友達に成れますし。あれ以来、私はこれからも遠山先生といっしょに続いていこうと思って、定年した友達を7人集めて、恩格貝に行こうと思ったら、甘粛省のほうも人が足りないと聞いて、ここに来たわけです」。

僕は涙が出た。恥ずかしくて堪らなかった。僕は毎日黄沙が舞い上がる黄土高原を見ているのに、こんな悪い環境を変えようと思ったことが一回もないことに恥ずかしかった。僕の心の中の西部図は地元の人々にとって、黄沙の被害を受けた人にとって、どんなに悪夢のようなものか、僕は考えもしなかった。なのに、10数年前から、年齢や体力にも関わらず、こつこつ努力している人がいる!それにその人のおかげで、たくさんの人が造林に入ってきた。恩格貝だけではなく、より広い地域も改造はされつつあっているのである。

あの日から、僕も木を植え始めた。クラスメートと一緒に年に三回キャンパスの近くで木を植え始めた。木を植えているうちに、僕は遠山先生の気持ちが分かるような気がした。「緑化は国境がない、造林は平和の元」。だって木を植える時、誰もが心が軟らかく、温かくなるから。

そして、翌年のことであった。清野先生の実験は成功した。つまりこれから、僕たちは紅砂を植えられるようになった、もっと効率的に造林できるようになった。でも同じ年、遠山先生は97歳の高齢で恩格貝で永遠に眠った。

僕はすごく悲しく感じた。でも実は遠山先生は紅砂のような存在ではないかと思った。遠山先生は紅砂が如く、流砂や旱魃に一切恐れず、勇敢に砂漠と戦っていると同時に、種を蒔くように大自然と平和の福音を広がっていた。それで、清野先生たちのようなたくさんの人はその種を拾い、砂漠に旅に出た。遠山先生はあの世にいらっしゃったが、その信念はちゃんと僕たちの心に伝わった、紅砂の種のように。

創作のインスピレーション

2004年8月、私は蘭州大學に入学した。蘭州で過ごした充実な四年間は「紅砂」の基礎だと思う。

大學二年の時、偶然のきっかけで「砂漠の父」と呼ばれた遠山正瑛氏についての記事を読み、遠山氏の信念の強さに深く感動した。大学時代にはよくキャンパスの近くの山で木を植えていたが、緑化の意味を分かるのは遠山氏についての記事を読んだ後のことであった。そして大学三年の時、蘭州政府と一緒に蘭州の南北両山緑化計画に力を注ぐ日本の環境保護組織KFGのメンバー達に出会い、我々と一緒に砂漠と戦う日本人がこんなにたくさんいると初めて実感した。その後、ずっとこう言う暖かい心を持っている日本の方々のために何か書きたかった。なので、笹川杯作文コンテストに参加し、「紅砂」を書きあげた。

また、私は今中国人民大學の大学院で日本の近代文学を勉強しているので、「紅砂」をただの感想文だけではなく、なるべく小説っぽく書いてみようと思っていたが、しかし結局、小説かどうかは自分でもよく分からなくなった。でもやっと遠山正瑛氏を初めのたくさんの日本の方々に感謝の意を表した、私なりに。それだけで私には十分なのである。

最後には、素晴らしいチャンスをくださった笹川杯作文コンテストに感謝いたします。ありがとうございました。

 

人民中国インターネット版 2008年12月4日

 

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