忘れ得ぬ張純如の眼差し

天津市 祁金敏

夫が、以前、日本に関する根源的な記憶について話してくれた。小学生の頃、日本の専門家の子息である巨太郎という子が夫と同じクラスになった。言葉は通じなかったが、巨太郎は聡明で優しい子で、しかも腕白なところがあり、直ぐにクラスのみんなと仲良くなった。巨太郎は日本に帰ってからも、ちょくちょく片言の中国語で夫に手紙をくれていたそうである。

少年時代のこうした記憶が、夫の心には素晴らしい思い出として残っている。そういう運命だったのか、彼が後に学んだ専攻は日本語だった。一年余り日本で学び仕事をし、今でも日中貿易に従事している。彼の一日は、日本の取引先から来たメールに返信するところから始まる。私の一日は“DHCオリーブ石鹸”での洗顔から、娘の一日は日本のアニメ、しまじろうを見ることから始まる。我が家は、経済的にも、物質的にも、精神的にも日本から切り離せないのだ。

しかし、中国人が感情的に日本を真に受け入れることは、容易ではない。ある日、私が自信満々にオフィスにいた時のこと、その日は雑誌や日本のドラマで普通に見かけるOL(ホワイトカラー女性)の装いをしていた。ふと新聞に載っている綺麗だが恨みを帯びた瞳が気になり、詳しく読んでみると、中国系女流作家の張純如についての特集記事だった。彼女は、『南京暴行』を書き終えた7年後に36歳の若さで自殺したという。記事では、彼女が何年にも亘って触れてきた全てが比類ない残忍な血なまぐさい歴史的事実であったため、一つ一つの悲惨なストーリーが彼女を苦しみの深淵へと追いやり、そこに取材や執筆の困難が重なって、最終的に精神が崩壊してしまったということであった。

私は、永遠にあの眼差しを忘れられまい。極めて綺麗、それなのに身を切るように寒い冷ややかな笑顔を。『南京暴行』を探してきて読んでみると、涙を禁じ得なかった。張純如がこの本を書き終えた後に感じた救いのなさと人間への失望を体感することができた。その感覚に共感し、それまでの日本に関する素晴らしさや暖かなものが雲散霧消してしまった。ひいては、自分もそれまでこんなに冷ややかで浅はかだったのかとすら感じたのだ。私には巨太郎のような幼なじみもいないし、私には理解できない。最もよく知る見知らぬ人―日本が。

その後、平静を取り戻してから自問してみた。普段はこれほど穏和に見える民族が、なぜ、逆毛立つほど激しい怒りを覚えさせるようなことをしたのだろうか?私はアメリカ人の書いた『菊と刀』を読み、答えを探そうとした。この本にも漏れていることは多いかもしれないが、この中にある日本社会に対する分析には考えさせられるものがあった。多くの入念で非常に細かい分析は、多面的で矛盾に満ちた日本について理解させてくれた。日本人の性格では、日本がドイツのように虐殺への謝罪することは殆ど不可能であると、私は一方的に思っています。南京も日本人の心の中では永遠に触れたくない痛みなのかもしれない。そこまで考えると、いくらか気持ちがすっきりした。忘却を選ぶことができないならば、真摯に対応すればいいのだ。日本に対して、現在の中国の若者にはある種の真摯な対応が欠けている。その真摯な対応というのは、南京大虐殺などの歴史が残した問題でもつれることではなく、日本の商品や生活方式がもたらす便利さや満足に心酔することでもない。より深い精神レベルでの相互理解を求め、双方の真の不文律を探し、同じ流れを汲む文化の共通点を探すことである。

私は一介の教師である。教え子が今年の7月、中国を代表して四日市の「姉妹都市・友好都市による中学生環境サミット」に参加した。帰国後、教え子は日本をより深く理解したようで、日本の優れた環境保護措置や高い文化性を目のあたりにして、日本の学生の善良な一面も理解してきた。こうした若者同士の友好的な交流こそ、多分、中日両国民が真に新しいページを開く希望となるのではなかろうか。

今の私は、未だに知的な日本OLのスタイルにはまっているし、日本のドラマ『金八先生』を心の励みにしている。箱根の温泉に浸かったり、北海道で雪見をしたりといったことも夢見ている。しかし、それでも私には張純如の眼差しが忘れられない。日本のもう一つの面を分からせてくれたあのふたつの眼が。心の中には、この熟知していながら見知らぬ人に対してまだまだ多くの疑問がある。それでも、私はそこに入っていこうとしているのかもしれない。

 

人民中国インターネット版 2008年12月4日

 

 

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