風に舞うタンポポ
黒龍江省 王海瑩
お隣の鄭お婆さんは、日本人の残留孤児を養育してきた。母の話では、その可哀想な女の子は、2歳の頃、お婆さんに街頭から拾われてきたそうで、空腹のあまり泣き声も出せず、重い病を患っていたという。彼女は、生みの親からの手紙を持っていた。その中には、日本が戦争に敗れたので、両親は彼女の兄たちを連れて引き上げたが、力には限りがあったため、彼女を中国に残したというようなことが書いてあった。
心根が優しい鄭お婆さんは、周りの反対も気に留めずその子を引き取ることにし、耳あたりのよい名前“英子”と命名した。鄭お婆さんには自分の息子もいて、その子は英子さんより2歳年上だった。英子さんを引き取ってから、お婆さんが子供を産むことはなかった。一家は英子さんを実の子より可愛いがり、精白した米と小麦粉も全て彼女に与えていた。
英子さんは日本人の残留孤児でありながら、それを理由に差別されたことは一切なかった。後に、彼女は師範学校に合格し、ある中学校の政治の教諭になった。彼女は皆と同じように結婚して子を産み、平凡で静かな日々を送っていた。しかし、その“平静”は、日本人残留孤児の帰国ブームによって破られてしまった。
前世紀の80年代の中頃、残留孤児が、親族を捜しに日本へ続々と帰国した。英子さんも、他の孤児たちと同様に親族を捜す旅に出たのである。彼女は遂に実の父の消息を聞き出したが、日本の父は、「認めてほしければ、今後、父の財産を絶対に相続しない」という誓約書に署名するようにと言ったのだった。養父母の彼女に対する気持ちとの雲泥の差に、英子さんはとても悲しい思いをした。それでも、やはりこの冷酷な合意書に署名したのだ。しかし、彼女は生みの親の家に半月も滞在せず、中国に帰った。
1994年、英子さんは一家三人を連れて日本に帰国した。彼女は、いつも養父母に貴重な栄養食品の仕送りをしていた。その時、養父母は隣近所からかなり羨しがられた。しかし、鄭のおばあさんが後日話していたことによると、英子さんの日本での生活は大変で、中国国内よりも稼げるお金は多いものの、日本の物価は世界で最も高いのだという。
当初、英子さん一家は、政府の救済金を頼りに生活していた。帰国した時、彼女とご主人は既に50歳になっていたので、仕事を探すのも大変だった。英子さんは、ごみの分類の仕事やレストランでの皿洗いなど毎日10時間以上も働かなければならなかった。しかし、間もなく彼女は日本での生活に適応することができ、その後、大阪で中華料理店を開業した。
この頃、鄭おばあさんは、英子さんを思うあまりに重病に罹っていた。ペンを手にしたこともない鄭おじいさんが、代筆を雇って英子さんに手紙を出し、自分もおばあさんも英子さんのことを懐かしく思っていると伝えた。英子さんは手紙を見るとひとしきり号泣した。
これ以上養父母に切ない思いをさせまいと考え、英子さんは二人を日本に迎える決心をした。しかし、日本の法律では、帰国した遺児と血縁関係のない人は、永住手続きを直接させてもらえないのだ。彼女は何度も政府にかけあい、特殊な窮状について酌量してくれるよう望んだ。担当官と言葉上の衝突に発展したことが何度かあった。彼女の努力はついに担当官を動かし、彼女の養父母が日本の親族を訪問することができるよう手続きを継続的に行うとの回答が得られた。
1996年10月、英子さんは養父母一家を大阪の自宅に迎えた。日本に向けて発つ時、70歳を超えた鄭おじいさんは、はらはらと涙をこぼし、もう戻って来られないかもしれないと悲しんだ。英子さんも泣きながら「皆さん安心して、どこに行っても両親の面倒はちゃんと見るから。」と隣近所に話した。
2005年、英子さんは、また彼女の中国の郷里に帰った。今回は、鄭おじいさんの遺骨をいだいての帰郷であった。生きているうちに連れて帰ることができなかった彼女は、父親にとても申し訳なく感じていた。今回の帰国で、彼女は当地に食品工場を建てたばかりか、80平米以上ものマンションを購入して自分と母親で住むことにした。彼女は母親に対して無念な思いを残すことがないよう、百歳になるのを待ってから日本へ戻ることにした。英子さん曰く「もし、善良で寛容な中国人が、私たちの落ちぶれた魂を慰めてくれなかったら、私たちは家に帰る船にも乗れなかった。私は一本のタンポポのようなもの。どこへ飛ばされて行っても、かつて自分の生命を養ってくれたこの土地を忘れることはできない!」
聞くところによると、その時代、中国の東北地区には約5,000人の日本人孤児がおり、戦争でひどく傷つけられた中国人が、彼らを死の淵から救い出して成人まで育てたという。今でも多くの人々が帰国後に「中国養父母謝恩会」といった民間団体を自主的に立ち上げ、養父母の共同墓地や養父母に感謝する記念碑を中国に築いている。そのうちのある碑文にはこう記されていた。「私たちは、中国の養父母の人道的な精神と慈愛の心に深く感激しています。このご恩は永遠に忘れません!」
人民中国インターネット版 2008年12月4日