日本から届いた一通の詫び状
湖北省 詹俊
木村さんは、私が大学を卒業する直前に知り合った日本人留学生である。私は中国言語文学を学んでいたが、木村さんの専攻も中国語で、彼の卒業論文を直してやってくれないかと同級生に紹介されたのだ。その時、私も論文執筆に忙しかったのだが、喜んで引き受けた。
私は、木村さんが確かに努力家で真面目な学生であるということを発見した。これは私が日本人に対して一貫して抱いていた見方とぴったり一致していた。何はともあれ、日本人とは真面目な民族であると、私はずっと思っていたのだ。何度も交流していくうちに、木村さんとは兄弟のような付き合いになった。自国の文化、民俗、面白い話や逸話について話し合うことにより、私たちの好奇心と知識欲は、大きな満足が得られ、互いの友情もどんどん深まっていった。
私たちは、いつも自分のサークルのコンパやイベントに相手を誘っていた。ある合コンで、勉強好きな木村さんは、新聞紙を取り出した。「覬覦」という単語を指さして「この意味は何か」と聞いてきた。私はちょっと考え、リアルでいたずらっぽい方法で教えてやることにした。私は、彼の知識を追究する眼差しに対して微笑を浮かべ、「覬覦とは、つまり、他人の物がとても羨ましくて自分も手に入れたくなるということだよ。例えば、君らの日本が、当初、中国に侵略戦争を仕掛けてきた時、それこそ中国の広さと資源の豊かさ、僕ら中華民族の豊富な物産を覬覦していただろう。それに、今だって、君らは、中国の釣魚島が持つ戦略的地位を覬覦するから、あの島を占領したがっているだろう?」正に私が得意気に話していた時、木村さんの顔色は沈み、その両目は怒りをあらわにしていた。
何かが起きると予感した私は、コンパが終わってから彼に説明しようと考えた。予想に違わず、コンパが終わる前に木村さんは一人で出て行ってしまった。同級生たちは、木村さんを追いかけて「あれはただの比喩だから、彼個人を責めるものではない。」と説明するよう私に勧めた。私は、その時、木村さんは度量が小さい人だなと思っていた。彼のプライドを傷つけていることには意識が充分に回らなかったのである。
それ以降、私と木村さんとの関係は冷淡なものになり、どちらからともなく足を向けることがなくなった。卒業を迎え、木村さんは帰国することになった。私は、彼の壮行会で謝って事情を話そうと思っていたのだが、忙しさのあまりその重大な用事を忘れてしまっていた。私は、後になってとても後悔した。異国の友との真の友情を、私自身が葬り去ってしまったのだと思った。
予想外なことに、私が木村さんのことを忘れそうになっていた頃、彼が日本から手紙をくれたのだった。封筒を開けると、中から枯れて黄色くなってしまった花びら―桜の花びらが舞い落ちてきた。ふと暖かなものが胸に染みこみ、私は深く感動した。「日本の桜が、自分たちの学校にある桜とどう違うのか見てみたい。」と木村さんに話したことがあったのだ。その時、彼は笑いながら「帰国したら、何枚か送るよ。」と話していた。計らずも、この桜がない季節に、彼は桜の香りを届けてくれたのだった。木村さんからの手紙には―
承俊君(注)へ
こんにちは!
君の親友として、私、三島の木村は、ここに了承事項を実現させます。本物の日本の桜の花びらを君に送ります。これは以前に集めていたものなので、枯れてしまっていますが、私たちの友情には些かも差し支えないと思っています。君もそう思ってくれますか?ははは、古い友人は、私のことを忘れているのかな?
要件に戻りましょう!私がこの手紙を書いている本当の目的は、君にお詫びを伝えるためです。君と君の国にお詫びを伝える必要を感じたからです。君の言う通りでした。私の国は、今でも多くの日本人が認めようとしていない侵略戦争をすべきではありませんでした。戦争が君たちの国に深くて甚大な傷をつけたことに、私は深くお詫びを申し上げたい。君と君の国にお詫びし、許してもらえたらと願っています。
実際、現在の中日両国民は、平和を愛しているし、互いに友好的です。両国の青年も互いに敵視せず、歴史の教訓をしっかり心に留め、二度と両国民に尽きることのない痛みをもたらすことが起きないように希望しています。君の話していた釣魚島については、私も残念に思っています。こうした前の世代が解決していない紛争は、私たちの世代が解決すべきことなのかもしれません。将来、きっと、こうした問題はきちんと解決することができるだろうと信じています。日中青年の友情が長く続くよう、私たちの友情に政治的な要素が紛れ込まないよう、心から願っています。承俊君はどうですか?
その時、私は、木村さんが度量の小さい人などとは思えなかった。本来なら私が彼に謝るべきところなのに、彼の方が日本からお詫びの手紙をくれるとは!私は、木村さんのような友人を持つことができて嬉しく思う。そして、私と彼との真摯な友情も嬉しく思っている。
中日両国民は、理解を増進するという基礎の上にコンセンサスを築いてこそ、平和と友好の道を長く歩むことができるのである。思うに、その巨大な重責は、私たち両国青年にかかっているのだ。ふと、この前の北京オリンピック開幕式を思い出した。日本選手団が入場する時、全員が中日両国の国旗を振っていた。あの時、私には希望が見えた。中日の世代間の友好の希望が。
(注)承俊:木村さんは、作者を“承俊君”という愛称で呼んでいた。
人民中国インターネット版 2008年12月4日