わたしの祖母

燕山大学外国語学院 張慧嬌

 私の祖母は今年もう80歳になりました。彼女は体が丈夫で、しわも少なくて、髪の毛だけ真っ白になりました。この真っ白く輝いている髪こそ、おばあちゃんをもっと元気に引き立てます。このような年寄りはどこにでもいるのではないかと思われるかもしれませんが、中国人としての私の祖母は日本人で、いわゆる「中国残留日本人」というのです。祖母の話の端々から、彼女のこの特別な身の上、さらに、ほかのいろいろなことが私に伝わってきます。

それは一九四○年のことでした。12歳の祖母は、肉親の三人と日本の国策を受け、黒龍江省大八浪開拓団に渡って行きました。そこで、日本人の皆と一緒に相当粗末な家に入って、共同生活を始めました。厳しい暑さ、水不足、それにひどい食糧不足で、満足に食べることもできず、毎日苦しい生活をしていました。恐ろしい病気が流行して、病院も薬もなく、大勢の人が亡くなってしまいました。祖母も生死の境をさまよっていました。

一九四五年八月十五日、17歳の祖母は、日本人の皆と家を逃げ出して避難民になってしまいました。避難の途中、昼間は全然歩けませんでした。煙の中から鉄砲の弾が飛んできて、恐ろしい飛行機の音がし、避難民たちは悲しくてどうしょうもなかったです。その上、天気も悪く、雨が降り続き、全身はびしょびしょに濡れてしまって、山中の坂道は本当に歩きにくく、老人や子供達は足が進みませんでした。祖母も空腹で、もう歩けない状況になってしまって、夜になって中国人の畑に入って,トウモロコシや、ジャガイモを取って、生のままで食べたり、馬の足跡に溜まった泥水を飲んだりして歩きました。途中で死んでしまった老人や子供は何人ぐらいいたかわかりませんでした。祖母はその兄一歳の赤ちゃんを背中に背負っていたのですが、ふと気がつくと、赤ちゃんはもう背中で死んでしまいました。そして、もう歩けないおじいさん、おばあさん達は自分で川に身を投げ流されて行って、また、疲れ果てた母親達はこっそりと脇道に入って幼児を投げ込んで捨ててしまいました。母親達は泣きながら流されて行ってしまいました。運がよかった祖母は死ぬか生きるかという時、中国人の士官に命を助けられました。その後、野戦病院で、看護婦の仕事を始め、それに士官と結婚しました。その士官は言うまでもなく、私の祖父です。ひどい苦難を経験した彼女はとても粘り強く、看護婦の仕事をよくできて、家族の世話もよくできました。でも、彼女はずっと故郷を懐かしく思っていました。

一九七二年九月二十九日、一切はついに転機を迎えました。日本の首相は中国を訪問して、北京で、『日中共同声明』という書類に署名しました。それから、両国の国交が回復しました。祖母はとても嬉しくて、帰国の手続きの準備を始めました。幾年後、祖母はついに故郷に帰って親族を訪ねる機会を得ました。改めて久しぶりの生まれ育った懐かしい故郷の土地を踏んだ時、長い間ずっと抑えていた感情はもう二度と抑えられなく、涙がぼろぼろ流れました。同行の親戚達は完全に目前の新しい世界に引かれ、祖母の変化に少しも気付きませんでした。祖父に慰められましたけど、心の味を誰も知られませんでした。その後、何度も帰国しましたけど、短期の滞在だけでした。別に故郷に帰って定住したくなく、中国には、夫と子孫があって、多くの記憶があって、中国も忘れられない自分を大きく育てた第二の故郷だと祖母はずっと思っているのです。

一九九八年の冬、祖母は伴侶であり、恩人でもある祖父に亡くなられていました。国外の生活に憧れていた親戚達も、ほとんど彼女を利用して、次々と日本に移住しました。やがて、中国でもう60年の長い月日を送ってきた彼女も日本に行って、定住するようになったのです。

帰国した彼女は、息子と一緒に住んで、何も自分でやる必要がありませんでしたけど、このような生活に慣れませんでした。ただ小学校の教育程度だけある彼女は、身をもって体験した苦難を書いて、新聞などに何度も発表しました。その演説も賞を取って、書いた物も本に収録されました。「その戦争で、大勢の中国人、また日本人が亡くなってしまいました。生き残った人もひどい被害を受けました。私の死ぬか生きるかと言う時、中国人に命を助けられました、両国の国民がそもそも親しいですが、何のために戦争はやるのか、今後は決して二度と戦争が起きないように、これが両国の国民の一番大切なお願いだと思います」と彼女は書いていました。

「私もおばんちゃんといっしょに中日両国の友好のかけ橋になるように頑張りたいと思う」と私に言われたら、おばあちゃんは頷いて、微笑んでいました。その真っ白な髪の毛は朝日に輝いています。

創作のインスピレーション

まだ小さい頃、お祖母さんは日本人であるとお母さんに聞きました。それに、中国人に助けられた後、お祖母さんは苦しい生活の中で、家族の世話と子育ての傍ら、うまく仕事をし、毎年、模範に当選したそうです。その時、私の幼い心には、誇りと自慢ばかりいっぱいで、ほかの戦争や避難、そして、遺孤などについて少しも分かりませんでした。生命、世界、戦争についての私の認識は、年と経験の増やすとともに、ますます深くなってきます。同時に、心の中では、ある衝動が強くなっているのを感じて、自分の思いを世界に向かって大声で叫び出すことさえもしたくなります。筆は私の最高の具と分かっていますけど、筆を執ろうとしたら、これは非常に重いであると感じました。血と涙いっぱいでの事実の前では、私の勇気と能力がすべて無くなってしまいました。けれども、今度の投稿募集の通知を見た際に、相変わらず逃れることがだめだという気がしました。能力が低いであっても、筆は稚拙であっても、せめて自分の、更に言えば、お祖母さんの、世界じゅうの大部分の人の願いを言い表したいです。これは心の底からの喚声をあげることで、それはつまり平和で、中日両国のなだけではなくて、全世界の平和です

もう80歳のお祖母さんは壮健で、矍鑠としています。それは、戦争の爪痕を覆い隠させられて、彼女の経験したことを忘れさせます。世の移り変わりが激しいです。目下の繁栄は、かつてこの土地では何かが発生し、人間は何かが経験したことを忘れさせます。今の世界がこのような喚声を必要としていると思っています。

 

人民中国インターネット版 2008年12月4日

 

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