・リンゴ栽培の開始
栖霞のリンゴ栽培の始まりは1871年、アメリカの宣教師が苗を輸入したことがきっかけでした。その後、国光などの品種が栽培されましたが、改革開放の後、日本の富士リンゴなどを大規模に栽培しはじめました。富士リンゴは色が鮮やかで、さくさくした食感があり、みずみずしい上に甘いので、全国で名が知られるようになりました。住民たちは大きなチャンスを手にして、「中国一のリンゴの町」をゆっくりと作り上げていきました。
・改革開放の開始「包産到戸」
1976年10月、四人組が倒され、10年間にわたる文化大革命が終わりました。1978年末、安徽省鳳陽県小岡村の農民は自発的に人民公社の土地を家庭ごとに請け負わせる「包産到戸」という経営方式を始めました。その後この経営方式は、他の村や県、そして四川省の一部まで広がりました。1980年5月、トウ小平氏がこの方式について、「小岡村では一年間で農民たちの収入が大きく伸び、小岡村の様子も大きく変化した」と評価しました。1978年末、安徽省鳳陽県小岡村の農民による「包産到戸」は、中国の運命を大きく変えた改革開放の始まりとされました。
以来、この「包産到戸」の方式がすさまじいスピードで全国に広まりました。1981年に、南の貴州、四川、東部の山東などでは半分以上の公社で実施されました。1982年、中央政府に正式に認められ、公社は廃止されました。1983年中央政府はさらに、請け負い責任制を「党の指導の下での中国農民の偉大なる創造」だと賞賛しました。
・県から市へと昇格
栖霞市の場合ですが、1995年までは市ではなく、市の下の行政単位である「県」だったので、当時は「栖霞県」でした。
1958年9月からいままでの郷鎮体制が人民公社に、果樹園などは国有化されました。文化大革命が終わり、農村改革が始まるという波に乗って、1984年3月に、29年間も続いた人民公社の体制が、郷鎮体制に戻りました。国のものだった果樹園は各家庭に請け負われることになり、個人経営になりました。
この時のリンゴの種類は、色が青く、サイズも小さめの「国光」が主でした。おいしさで名が知られていましたが、計画経済の時代だったので、配給制であり、生産高が低い上、自由に販売することもできませんでした。このリンゴを購入するためには、裏から手を回さなければならないほど、量が少なかったのです。それほど、このときの栖霞のリンゴは庶民にとっては遠い存在でした。 当時栖霞県の規模は、8の鎮、15の郷を管轄しており、今の半分ぐらいでした。 1984年に「包産到戸」が実施されて10年後の1995年に、管轄する鎮の数が13に増え、市に昇格されました。その裏には、日本の富士リンゴとの出会いがありました。
・日本の富士リンゴとの出会い
栖霞市果物業発展局の生産研究科のド学平科長は、長年果物の栽培を研究しており、第一線で活躍しています。ド学平科長は、リンゴ業の歩みをこのように紹介してくれました。 90年代は、栖霞のリンゴ生産が飛躍的に発展を遂げた時代でした。その背景には、日本の富士リンゴとの出会いがありました。 80年代、リンゴ農家は栽培面積を拡大させるのと共に、品質にこだわる傾向が強くなりました。
このとき、われわれは優れた品種として日本の富士リンゴに目をつけました。そして82年に、日本の長野県や秋田県から富士リンゴを取り入れました。
このとき山形県から来た技術者、菅井功さんが技術指導にあたり、枝の剪定や施肥などで進んだ方法を栖霞にもたらしました。菅井さんが日本に戻ってからは、菅井さんの息子さんがそのあとを受け継いだので、この指導は10年間も続きました。このとき指導した実をつけてからの管理技術は今も役立っており、栖霞にすっかり定着しています。
印象的なのは枝の剪定技術でした。それまで農家の人たちは、生産量を高めるために枝の剪定をしませんでした。実がなる枝を切り取るなんて、愚かなことだと思っていたからです。この技術を普及させるのが何よりも大変なことでした。
それ以来、量ではなく、質で勝負できるという理念が農家の間に深く根付きました。農家の人たちは技術の習得にとても熱心になりました。そのための講座が開かれると、大勢つめかけて、教室が足りなくなるほどで、人数を制限するために学費を負担してもらうようにしましたが、それでも新しい養成クラスが開くたびに、受け入れられなかったほどでした。
90年代に入ると、リンゴの付加価値を高めるような工夫が取り入れられるようになりました。たとえば、リンゴの表面に「福、禄、寿」などの縁起のいい文字を入れたり、セレンリンゴ、SODリンゴなど、栄養豊富なリンゴを栽培したりしています。