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慈覚大師円仁 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた | |
円仁一行は泗州から歩くこと5日間で揚州についた。そこで「城内の僧尼が、頭に布を巻いて僧尼であったことを隠し、本籍地へ帰されるところを見た」(845年旧暦6月28日)。円仁はすぐに揚州を去ったが、「賄賂を使って楚州に行かせてほしいと頼み……高郵県と宝応県を通過した」
大運河のフェリーの渡し
江蘇省宝応県は楚州の南に位置し、円仁が839年初めて唐に渡った際に一夜を過ごしたところである。845年、楚州へ慌ただしく向かう途中で、再びここを通ったことであろう。私は宝応県に行き、円仁日記に出てくる山陽村を調べてみた。当時ここは相当な町であったが、今では狭い水路にとり囲まれた小さな村にすぎない。フェリーで大運河を上っていくと、夕暮れはこの風景に時を超えた光を投げかけていた。
大運河の船頭
船頭もまた舵を固定して船を安定させる、昔ながらの手法を再現しているようであった。
船上の円仁と従者
このイラストは、運河を渡る円仁の様子を描いている。仏教弾圧はいまや熾烈をきわめ、円仁は用心深く旅を続けなければならなかったので、頭に布を巻いて身分を隠したという。(野雪のイラストより)
唐代楚州の新羅人居留区跡(江蘇省淮安)
山陽県の役人は円仁一行の楚州滞在に反対したが、新羅人通訳の劉慎言は彼らを説得して、出発前の数日を自宅で休ませてくれた。劉慎言は、839年円仁の入唐初期にも力を貸した通訳である。彼はまた、円仁の集めた仏像や経典を、危険をおかして自宅にかくまってくれた。周恩来記念堂の真北にあるこの住宅街は、唐代に新羅人居留区があったところである。円仁がここへ来た845年と847年当時、そこは安全な避難所であった。
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