監督 張加貝
日中合作 107分
11月 日本公開
あらすじ
桜桃は、知的障害を持つ孤児。育ての親の勧めで彼女の足の不自由な息子と生きていくための結婚をする。男女の愛が何たるかも分らない桜桃は、こうすれば赤ちゃんが出来るという夫の言葉に、セックスを受け入れるが、二人にはなかなか子どもは出来なかった。
ある日、村はずれの道端に捨てられた女児の赤ん坊を拾ってきた桜桃は、夫の反対にもかかわらず、愛しみ育て始める。夫は赤ん坊にかまけてセックスも拒否する桜桃に腹を立て、町に住む子どものない夫婦に赤ん坊をやってしまう。町を放浪し、必死で赤ん坊を捜す桜桃。
村人たちに諭された夫が、しぶしぶ赤ん坊を取り戻してくると、桜桃と紅紅と名づけた小さな娘とのこのうえなく幸せな数年間が始まった。だが、やがて成長して学校に通うようになった紅紅は好きな同級生の手前、知恵遅れの母を恥じ、そっけない態度を取り始める。それでも、ひたすら娘に尽くす桜桃。肺炎にかかった娘を必死で看病する桜桃の姿に、紅紅の態度も少しずつ変化していく。そんな頃、木に登って紅紅の好物のサクランボを取りに行った桜桃は、木から落ち、増水した河に流され、死んでしまう。
解説
『初恋のきた道』で素朴な夫婦愛を謳いあげた原作者の鮑十が、今度は血のつながらない母と娘の愛の物語を書いた。監督は在日中国人の張加貝。中国では映画評論家として活動、その後、来日して今村昌平監督が設立した日本映画学校で監督業を学ぶ。監督デヴュー作は日本映画『歌舞伎町の案内人』。2作目が中国映画『陶器人形』で、3作目の本作は日本と上海電影集団の合作である。
男性である監督と原作者はおそらく母性愛の賛歌として、この物語を作ったのだと思うが、私が見るに、桜桃の娘への愛は母性というのとは少し違う。幼い頃から肉親の愛に恵まれず、智恵遅れであることから、同世代の子どもたちからもバカにされて、友だちもなく育った桜桃は、捨て子を得て初めて、愛し愛される対象を得たのだと思う。子どもというのは無条件で自分の愛を受け入れてくれる存在だからだ。したがって、桜桃のそれは母性愛というよりも、愛されたことのない女性の悲しい愛の姿なのだ。中国において捨て子は、都市部でも農村でも女の子であるか、身体障害のある子どもであるのが普通なので、桜桃が拾ったのが女の子だったという設定にも深い意味はなかったのかもしれないが、女の子であったからこそ、この物語に深みが出たと思う。桜桃が死んで初めて、紅紅は養母の孤独と悲しみを心から理解する。その紅紅に桜桃の精神が生き続けると思うことで、私はようやくこの物語に救いを見出せることができた。
見どころ
桜桃を演じた苗圃以外はほぼ現地の素人たちが演じている。そこに非常に自然かつ素朴な味わいが生まれ、この物語によくマッチしている。特に桜桃の夫を演じたのは現地の役人で、アマチュアの俳優でもあるのだそうだが、田壮壮監督似の風貌と朴訥な雰囲気が素晴らしく、プロの女優である苗圃と夫婦を演じてもまったく違和感がないのは、どっちがすごいのか。多分、両方だろう。
その見事な演技を披露した苗圃は、撮影が始まってすぐに、投げ出して帰りたくなったと告白したほど過酷な役だったと言う。見た目も台詞も、女優としてのすべてを捨てて、捨て身で演じるのは確かに相当にしんどかったに違いない。彼女のその渾身の演技は、去年の東京国際映画祭でも非常に評価が高く、これがコンペティション部門上映作だったら、主演女優賞は彼女に贈ることができたのだが、とわざわざ授賞式で審査員からコメントがあったほどである。
過酷で悲しい物語をより際立たせたのは、ミャンマーにほど近いという雲南の山村の美しい風景で、夜の棚田や月の映像がそれは見事である。これらのロケ地は村長を演じた現地の写真家のコーディネートによるものだそうだ。幼年期と少女期の2人の紅紅を演じた現地の少女たちの素朴な愛らしさも光っていた。このへんは日本のみの製作ではとても無理だったろう。それに対して、撮影や音楽を始め、技術スタッフはいずれも日本人が担当している。不自然な設定で無理やり中国と日本の人気俳優を共演させる合作映画ではなく、こうした日中それぞれの長所を生かし、短所を補う形での合作作品が今後も増えていくといいなあと思う。(0812)
人民中国インタ-ネット版 2009年1月
|