円仁の帰還

 

慈覚大師円仁 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた 

 
 
 円仁たちは中国を離れ、最東端の成山頭を通過した。「9月2日、真東に向かうこと一日一夜・・・・・・9月4日、早暁東の方向に(新羅の)山島が途切れることなく連なっているのを見た」。船は朝鮮半島の海岸線を巡って進んだ。

風がまったく吹いてこないため人々は恐怖にかられた。そこで「乗船者たちは、鏡などを海中に捨てて海神に奉り、風の出ることを祈った」

円仁は金剛経を唱えた。この航海についてはおもしろい逸話がある。この時円仁は貴重な守護仏の薬師如来像を海中に投じた。数年後、と話は続く。円仁が浜辺を行脚していると、浜に打ちあげられた蛸の足に、その薬師如来像が絡まっているのが見つかった。東京の目黒にある小さな蛸薬師寺は、その像を祭るために建てられたものである。

円仁と同船していた者の中に中国僧・楽郃がいた。彼は後に『円仁三蔵供奉入唐昌益往返事伝記』を著し、その中で円仁について、貴重な評価を伝えている。それによると、円仁は中国南部および北部の言語を正確に話したという。それ以上に楽郃は、円仁の勤勉、誠実な人柄、学術的業績を賞賛している。さらに、唐の皇帝・宣宗が、円仁が中国を去ったと知って、いたく悲しんだと書いている。

中国の海岸を離れて8日後に、一行は夜明けのほの暗い光の中に、対馬の島影がぼんやりと浮かび上がるのを見た。旧暦9月10日であった。円仁は「正午頃、前方に日本の山々が、東から西南にかけて連なっているのが、はっきりと見えた・・・・・・」と記録している。その夜、船は五島列島の一つに停泊した。一行の安堵は、筆舌に尽くせぬものであったろう。

一週間後の847年旧暦9月18日、船は博多湾に入り、一行は鴻臚館に宿泊した。鴻臚館とは、海外と日本の間を往来する、内外の公式使節や賓客を宿泊させる迎賓館であった。円仁は、ここに5カ月余滞在した。ここはまた、唐や新羅との公許交易の日本側窓口でもあった。しかしながら、円仁もその一翼を担った外交使命は、公式遣唐使としては最後のものとなった。

写真①

写真① 大(太)宰府遺跡(福岡県)  京都朝廷の出先機関であった大宰府の庁舎(都府楼)は、唐の制度と建物とを手本としたものであった。この政庁は、日本の海事をとり扱い、九州全土を管轄していた。敷地の遺構が保存されているので、礎石をたどることによって、当時の建物の概要をつかむことができる。円仁は、この政庁に帰国報告を提出し、彼自身と同行者に対する恩給を受け取った。円仁に対し最終的に比叡山入山を許可する公式通達も、大宰府を通して伝えられた。

写真② 写真③

写真② 小さな社殿(博多) 円仁は、大宰府および博多周辺の神社仏閣に特別の思いを込めて巡拝し、入唐巡礼行中の神仏の加護と、求法の力を与えられ、無事に帰還できたことを神仏に感謝した。円仁が日記の最終章に述べているこの地の神社仏閣を、私はいくつか巡ってみた。「11月29日午前、住吉大神のために経500巻を転読した」。円仁は、旅の途中困難な局面に出会うと、住吉大神に加護を祈った。博多の住吉大社は、全国に2000余もある住吉大社のうち、「日本第一住吉宮」と古書に記載されている。

日記の最終のくだりに、比叡山から多数の若い僧がやってきて、円仁の日本での活動再開を手伝ったとある。彼らは、留守中のでき事を円仁に手短かに語った。円仁は、船上の新羅人、中国人すべてに感謝して、彼らのために衣服を作らせ、日本滞在中の宿舎も保証した。おそらく円仁の脳裏には、中国滞在中彼に手を差しのべた人々の姿があったのであろう。巻第4、日記の最終の日付は旧暦12月14日となっている(848年1月23日)。「午後、南忠阿闍梨が(叡山より)到着した」

写真③ 壬生寺の円仁像(栃木県) 円仁は延暦寺に丁重に迎えられ、入唐中に学んだ知識を伝え始めた。さらに密教儀式を行い、弟子を修行させる堂宇をいくつか建てた。 帰国7年後の854年、円仁は天台宗の第三代座主となった。延暦寺国宝殿には、円仁請来の貴重な宝物に霊感を得て後世に製作され、その様式を今に伝える曼荼羅、経典、仏像などが展示されている。残念ながら、円仁が苦労して持ち帰った実物はほとんど残っていない。円仁が、唐に渡る前から、すでに写経の作法と精神とを示していたことも、記憶されるべきであろう。現在円仁ゆかりの寺は全国に700余寺もある。

写真④

写真④横川中堂(京都・比叡山) 横川とは比叡山の三塔の一つである。833年、円仁40歳のとき大病を患い、療養のためにこの地に隠棲した。唐から帰国した円仁が、848年ここに建てたのが横川中堂である(現在の建物は1970年に再建されたもの)。大海を渡って無事に帰還したことを感謝して、円仁はここに聖観音菩薩像を奉納した。観音菩薩の両脇に不動明王と毘沙門天が従う天台独特の三像構成を見せている。伝説によると、海上で嵐にあった円仁は、聖観音菩薩に加護を祈った。すると北の方角を守護する毘沙門天が現れて嵐を鎮めたという。円仁はまた帰山するとすぐに、横川に塔を建てて、唐で集めた経典を納めた。

横川中堂の前には、「仏国土をつくろう」という文字を刻んだ大きな石碑が立っている。円仁日記の読者なら、これを見ると鄭州長史・辛文昱の言葉を思い出すであろう。辛文昱は鄭州近郊の茶店で別れに際し、円仁に対して切々と次のように懇願したのであった。「願わくは、和上には最善を尽くして早く本国に帰りつき、仏道を広められんことを」

写真⑤ 写真⑥

写真⑤ 赤山宮  横川中堂の正面、薄く雪をかぶった丘の上に、小さな神社があるのを見つけて、私は驚いた。これが山東省の赤山明神に捧げられた赤山宮であり、比叡山守護神の一つとみなされている。神社は、円仁が入唐中に受けた神の庇護を、決して忘れなかったことの証でもある。

写真⑥ 円仁の墓(比叡山延暦寺) 円仁は864年、71歳で入寂した。諡号「慈覚大師」を贈られたのは似2年後である。「大師」は僧侶に贈られる最高の地位である。遺言の中で、円仁は廟に祀られることを望まず、ただ弟子たちの手で「墓所を示す一本の樹を植えてほしい」と述べている。その遺言にふさわしく円仁の墓は深い谷の奥にあり、そこへ行くにはかなりの距離を歩かねばならない。

2003年のある冬の朝、案内してくれた若い僧は、歩きながらずっと魔よけの印を結んで私たちを守ってくれた。小雪の舞う中をゆっくり進んでいくと、幾人かの修行僧が険しい山道を早足で「常行三昧」の修行に励んでいるのが見えた。円仁が9年間の入唐中に行ったのと同様に、彼らもあたりに満ちる自然の生命によって、精神性を高めていたのである。早足で行く修行僧の姿を眼にしたことによって、私には円仁の堅忍不抜の人格がいっそうよく理解できた。  

唐の道を歩くことで、円仁は生命の真髄と仏法の奥義とをより深く理解し得たのである。歩くことそれ自体が、円仁にとって宗教的体験であった。歩きながら、円仁は周囲のすべてを受け入れる容器と化していた。この体験は、帰国後日本人の精神的指導者としての円仁に強い力を与えた。

円仁は使命を帯びた人間であると同時に、旅行家であり、巡礼者であり、日記作家でもあった。唐での貴重な体験録は、当時の中国社会に対する正確かつ鋭い時代考証であるにとどまらない。それは私たちに、強い信念を持って真実を求め続けた、学識深い高僧の決意を語ってくれる。

円仁日記を読むと、彼の信じられぬほどの視野の広さと、人間としての暖かさに気がつく。それ以上に、その日々の記録を通して、生身の円仁を感じることができる。円仁は、私たちに、その視線を通してものごとを眺め、あたかも彼と同じ目線に立っているかのように感じさせる。私たちは彼の鋭い観察力、好奇心、そして失望までも共感することができる。円仁の旅は、私たちを冒険にいざなう。1200年前の人物でありながら、彼の個性はいまなお、私たちの心を揺さぶり、強く惹きつけてやまない。(0812)

 

阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『今よみがえる唐代中国の旅 円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』(ランダムハウス講談社)にまとめた。5洲伝播出版社からも同著の英語版、中国語版、日本語版が出版されている。

 

人民中国インターネット版 2009年2月

 

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