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自然に融合している永定県初渓土楼群 |
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1960年代の冷戦時代、高空飛行中の米国の偵察機が、中国の「秘密」を発見した。その秘密とは、福建省南西部の山中に千台あまりものミサイル地下発射台が配置されていたというものである。その後1985年まで、米国にとって謎であり続けたその丸形の建物は、実際はミサイル発射台などではなく、客家(ハッカ)の人々特有の民家──土楼であった。
客家特有の民家
現在の福建省の南西部山地は、唐代まで百越族の流れをくむ人々の主な居住地であった。669年、この地の「蛮獠嘯乱(福建省泉州と広東省潮州一帯で起こった武装反乱)」を平定するため唐王朝から派遣された兵隊が駐屯するようになった。その後、数々の戦乱を経て、漢族の人々は中原から南方に続々と移住した。彼らはショオ(畲)族やヤオ(瑤)族などこの地の原住民と共生し、融合することで、次第に現在の客家となったのである。
長い間困窮や流浪に耐えてきた客家の人々は、山々が幾重にも重なる交通の不便な山地に定住した。外敵から身を守るため、山の走向に沿って土を突き固めて建築する中原の方法を踏襲している、中国の伝統的な建築に欠かせない「風水」の思想を汲み取り、山あいの狭い平地でその土地の土や木材、玉石などの資材を巧みに用いた。そして、集団生活と防御というニーズを満たし、質素で堅固な防御に優れた土製の高層建築・土楼を生み出した。明朝の初、中期の発展を経て、明朝の末期や清代、民国時代に入ると、土楼の建設技術はますます成熟し、今にいたるまで引き継がれている。現在、福建省南西部の山地には千棟を超える土楼が残っている。
巧みな建築技術
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ノアの方舟とも呼ばれる南靖県の和貴楼。沼地の上に200数本の松の木で杭を打ち、足場を作ったその上に建てられている。300年近くを経てもほぼ完璧に保存されている。庭を歩くと、足元の柔らかさがわかる奇跡の建築 |
「土楼の王子」と呼ばれる永定県洪坑土楼群の振成楼。「外は地元、内は西洋」という中国式・西洋式を併用した建築スタイルを採用し、独自の風格をそなえている |
土木構造の土楼の資材は、その土地で手に入れる。土や石灰、細かい砂を混ぜ、繰り返し突き砕き、さらに突き固めてから、高さ数十メートルの壁を築く。一部の土楼の壁にはさらに黒砂糖やもち米で作ったのり、卵の白身などを入れて混ぜることで壁の強度を高める。土楼の外側の塀の厚さは一般に1~2メートルほどあり、野生動物や盗賊の攻撃にも耐え、火事や地震などの災害にも強い。また、冬は暖かく、夏は涼しく、保温効果に優れている。
円形の壁の構造は、壁の中に木や竹の棒を水平に敷き、地面に近いほど厚く、上にいくにつれて薄くして壁全体を強化している。内部は柱を棟木、あるいは母屋桁まで通し、上部の要所を梁状の貫(欄額)で固める「穿斗式」の木構造で、空間を自由に仕切り、それぞれ機能別の部屋を作ることができる。昔からずっと土楼で暮らしてきた先祖たちのたゆまぬ探求のおかげで、壁の高さと厚さは13対1の比率に達し、もはや建築技術の極限に近づきつつある。
それぞれ特徴を持つ土楼
数多くの土楼の中で、世界遺産リストに登録されたのは、永定県の高北土楼群、洪坑土楼群、初渓土楼群、衍香楼、振福楼、南靖県の田螺坑土楼群、河坑土楼群、和貴楼、懐遠楼、華安県の大地土楼群である。
土楼は主に円形の円楼、四角の方楼、そして鳳凰が羽を広げたような五鳳楼と呼ばれる建築スタイルで造られたものが多いが、変形した楕円形や凹字形、半円形、八卦形などもある。
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承啓楼の建築規模は非常に大きく、福建省にある土楼の中でも最大の土楼の1つである |
「土楼の王」と呼ばれる永定県の高北土楼群の承啓楼は、円形の土楼として代表的なものである。明朝の崇禎年間(1628~1644年)に建設が始まり、清代の康熙年間(1662~1722年)に完成した。半世紀あまりかけて建てられた。
楼の直径は73メートル、高さは16メートル、3つの同心円の形になっている。一番外側は4階建て、各階に72部屋がある。第2層の丸い建物は2階建て、各階に40部屋ずつある。第3層は1階建て、32の部屋があり、中心部は祠堂となっている。土楼全体では400の部屋に3つの門、2つの井戸があり、敷地面積は5376平米を占めている。1986年、当時の中国郵電部(省)は中国民家にちなんだ切手セットを発行。その中の福建省民家の切手に、承啓楼が描かれている。
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奎聚楼の内部 | 洪坑土楼群に属する奎聚楼は、1834年に建てられたもので、敷地面積6000余平米に及ぶ。宮殿様式の構造の方形大土楼で、内部の軒や梁に施した彫刻が美しい。高いところから眺めると、楼群が背後の尾根と一体となり、猛々しい虎が山から下りようとしているかのように見えるが、その「虎の頭」の部分こそが奎聚楼である。虎の姿のように見える地形にあわせ、その地理の特徴を生かして設計されている。楼の前の塀には2つの窓があり、虎の両眼のようである。
奎聚楼の主人の名を林奎揚といい、設計者はその義兄弟にあたる翰林学士(皇帝の文学侍従官)の巫宜福という者であった。ここで暮らしていた者で、100年間のうちに進士または七品以上の官職を得た者は4名、大学生となった者は20数名にも及ぶ。まるで正門に貼られているこの対聯の文字のごとくである。「奎星朗照文明盛、聚族于斯気象新(奎星という神様の加護のもと文明が盛んになり、一族がここに集まれば活気づく」
1880年に竣工した永定県の衍香楼は、とりわけ読書人の名門・蘇氏一族の住まいとして知られている。「衍香」とは「子孫が次々に誕生して一門が盛んになり、読書人の家柄が代々受け継がれていく」ことを意味する。正門の上には「大夫第」、両側の対聯には「積徳多蕃衍、蔵書発古香(善行を積めば子孫が次々に誕生し、書籍を収蔵すれば香りが満ち溢れる)」、横額には「詩礼伝家」と書かれている。清代には蘇氏の子孫から秀才5人に挙人1人を輩出、彼らは福州などの地で職についた。現在、ここに暮らす16世帯の住民の中には、教師が25人、専門学校に通う学生が32人もいる。
南靖県の田螺坑土楼群は、標高788メートルの坂の上に位置し、方形の歩雲楼や円形の振昌楼、瑞雲楼、和昌楼、楕円形の文昌楼の5つの土楼からなっている。この土楼群の建設は1662年に始まり、全体は304年の歳月をかけて形成された。1つの方楼と4つの円楼という配置は、『考工記図』の中の「明堂五室」を参考に、「金木水火土」という五行の相生の順序に基づいて建設されたものである。特色ある建築形体の組み合わせによって形成された、代表的な楼群である。高いところから見ると、5つの土楼は山の走向に沿って散らばっており、幾重にも重なる土壁がやはり幾重にも重なる段々畑と、離れていても互いに呼応している。ふもとから仰ぎ見ると、高くそびえ立つ巨大な土楼は、空に跨るような壮大な勢いがある。
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二宜楼の廊下にある西洋風の壁画 |
二宜楼の美しい彫刻と彩色上絵 |
土楼のふるさとを散策すると、さまざまな土楼を目にすることができる。一番高い方楼・和貴楼、もっとも美しいといわれる懐遠楼、640年の歴史を持つ裕昌楼、ミニ土楼・如昇楼、豊かな文化の深みある二宜楼……それぞれが一冊の本になる。それはまた、地元の住民が育てた鉄観音の茶のように、厚みと香りを秘めている。(劉世昭=文・写真)
人民中国インターネット版 2009年4月30日
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