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荒地が豊穣の地に「北大荒」開拓の歴史

 

知識青年たちの奮闘

1970年代に、黒竜江生産建設兵団のある中隊で、巡回展示されたアマチュアの写真・絵画展

1968年12月、20歳の北京出身の青年、趙林さんは家族に別れを告げて、「北大荒」にやってきた。学生や幹部が長期間、農山村に定住し、思想改造をはかるとともに、農山村の社会主義建設に協力するという毛沢東主席の「上山下郷」の呼びかけに応えて、54万人もの知識青年が、北京や上海、杭州、ハルビンなどから「北大荒」へ来て開発に従事した。

その年、黒竜江省の開墾地区の農場は、黒竜江生産建設兵団に変わり、「半軍事、半農耕」の管理体制を敷いていた。チャムス(佳木斯)に着いた趙林さんは、知識青年たちを迎えに来た幌つきのトラックに乗って、身を切るような寒風をつき、第3師団853連隊の第4大隊第3中隊に到着した。

先輩の軍人入植者たちは、草葺きで泥造りの部屋のオンドルに火を入れて温めたり、どうやって「北大荒」の厳しい冬の生活になじむかを教えたりして、まるで父や兄のように、遠く家を離れた子どもたちの世話をしたのだった。

また中隊長は「元旦と春節(旧正月)は、君たちに何か出し物をやってもらおう。ものすごく寒い日は、都会育ちの君たちは働かなくていい。仕事は先輩たちにやってもらう」と命令した。そこで、背が高く、格好もよい趙さんが指名されて、現代京劇『紅灯記』の李玉和の役を演じることになった。出し物を練習したり、演じたりして、知識青年たちと先輩の軍人たちはいっしょに歌い、いっしょに笑い、春節を過ごしたのだった。

荒地の氷や雪が全部解けるとすぐに、知識青年たちは荷物を背負ってトラクターに乗り、荒地の奥に向かった。趙さんはもともと機械小隊に配属され、トラクターを運転することになっていたのだが、当時、趙さんの指導をした閻兆清さんは「この小僧は言うことを聴かず、愛情のためとか言って、何を言われてもトラクター小隊の仕事はせず、大変な仕事なのに、どうしても生産小隊に行かなければならないと言い張った。でも、もう言うまい。二人は後に結婚したのだから」と言う。

趙さんが気に入ったのは、浙江省寧波出身のしとやかな女の子だった。夏に鋤で土を耕すとき、男性の知識青年は力があるから、土を起こすのが女性の知識青年より速い。趙さんはこれをチャンスだと思った。自分の畝を耕し終わるとすぐ、寧波の女の子の畝に行って耕した。日が経つにつれ次第に二人は愛し合うようになり、恋が「北大荒」で実った。7年後、趙さんと寧波の女の子は、日干しレンガで造られた家で結婚式を挙げた。

1978年、多くの知識青年が都市に戻って行った。趙さん夫婦は1979年になってやっと都市に戻ってきた。新しい世代の開拓者として、知識青年たちは、自分の生涯でもっともうるわしい歳月と青春を、この荒原に捧げた。しかし都市に戻っても、まだ心の中で「北大荒」のことを思っている。

「『北大荒』で汗と涙を流し、まるまる十年働いた。いつも『北大荒』の地に戻った夢を見ている。こいつとは永遠に切っても切れないようだ」と趙さんは言う。現在、当時の知識青年たちの多くが毎年、「北大荒」に帰ってきて、かつて耕した黒い土の大地を訪ねたり、古い友人たちと集ったりしている。

 

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