誰もが医療を受けられる国に  
 

 

旧中国は「東アジアの病人」と呼ばれ、人々は飢えと戦乱だけでなく、病気にも苦しめられていた。解放前の中国人の平均寿命はわずか35歳、新生児の死亡率は20%に達していた。

新中国成立後、とくに「改革・開放」政策以来、人々の生活は改善され、2001年には平均寿命は71.8歳になり、新生児の死亡率も3.76%に下がった。

湖北省襄樊市の第一人民病院の医療人員は、市内の長虹路小学校にやってきて、子どもたちに衛生習慣を身につけさせるため、病気予防の知識講座を開いた

しかし、中国の医療にはさまざまな矛盾や問題が存在している。医療保障制度が不備で、政府の衛生面への支出は不足し、医療費の値上がりが激しい……。

そこで今年4月6日、政府は医療改革案を発表し、都市と農村をカバーする基本医療制度を確立し、安全で効果的な、便利で安い医療・衛生サービスを提供するという長期的な目標を提案して、多くの人々から喜ばれている。

温度計で体温を測る

私(丘桓興)は小学校6年生のときにマラリアに感染し、それが1953年に広東省のある山村の中学校に上がってもなおらず、発作は2日に1回続いた。ある日の午前中、寒気がし、震えがきた。先生は宿舎に帰って休むように言ったが、私は気が小さく、宿舎で一人で寝るのがいやで、厨房のカマドの火の前に蹲っていた。

間もなく高熱が出て、私は意識がもうろうとなり、思わず「鬼(亡霊)が来た」と叫んでしまった。その声に、食堂で昼食をとっていた先生や同級生たちはびっくりした。

当時、学校には医務室もなく、医科大学で学んだことのある化学の王元昌先生が校医をしていた。しかし、マラリヤの特効薬のキニーネはもとより、一粒の薬もなかった。王先生は実験室から太くて長い温度計を持ってきて、私の腋の下に入れ、両手で温度計を支えて体温を測った。王先生はしきりに頭を横に振りながらため息をつくばかりだった。

旧中国では医者も薬も少なかった。ある統計によると、1938年に湖南省郴州でコレラが流行した。3万人足らずの小さな町なのに、3日間で400人以上が死んだ。僻地の少数民族の村では、医者も薬もなく、病魔がほしいままに村民の健康を害し、命を奪っていった。新中国が成立した1949年、中国には、医者や看護婦など医療人員は50万5000人、ベッド数は8万5000床しかなかった。

1980年、貴州省鎮寧県石頭寨へ民謡の収集に行ったときのことである。いまではこの美しいプイ(布依)族の村は、内外の観光客を集めているが、その当時は伝染病の多い恐怖の土地だった。

「八月に穀物が実れば、マラリアの鬼がベッドにやってくる」と謡われていた。マラリアが流行ると、ほとんどの家に患者が出た。患者はガタガタと震えたかと思うと高熱を発し、意識不明に陥る。天然痘やコレラ、回帰熱も多くの村民の命を奪った。

村のお年寄りはこう嘆いていた。「四十数年前、この200戸ほどの村で、恐ろしいマラリアが流行り、いっぺんに百人以上が死んだ。伍雲芝さんの一家7人は全員が死んだ。最後には遺体を担ぐ人さえ見つからなくなってしまった」

当時、村には医者も薬もなく、村民は病気になると、鶏を殺して酒宴を設け、祈祷師に頼んで亡霊を追い払う経を念じてもらった。しかし亡霊を追い払っても病気は治らないばかりか、逆に病人が手遅れになってしまう。私が投宿していた宿の主人の兄の一家は18人の子をなしたが、17人が死んでしまった。

疫病神を追い払う

新中国が成立したとき、廃墟の中から立ち上がろうとする中国の経済は苦しかった。しかし政府は衛生運動を展開し、さまざまな方法で病気の予防と治療に取り組んだ。私が学んでいた僑興中学では、毎週土曜日には大掃除を行い、ハエや蚊のわく便所や排水溝に消毒と殺虫のため石灰をまいた。さらに学校側がマラリアに罹った生徒にキニーネを服用させたので、私も一年以上苦しんだマラリアが全快した。

2008年11月、江西省婺源県の疾病予防コントロールセンターの医者たちは、紫陽鎮の第一小学校で、子どもに流行性脳炎のワクチンを注射した

当時、多くの同級生たちは身体にトビヒ(水疱性皮膚炎)ができていた。この皮膚病は、大した病気ではないが、身体が痒くて耐え難く、授業や休憩の妨げになり、また簡単に感染する。このため学校側はどこからか中薬(漢方薬)の処方箋を探してきて、大きな桶に薬草を煎じた。トビヒの生徒は自分でそれを柄杓で皿に汲み、患部に塗る。意外にもこの名もない薬を数回塗ると、トビヒはすっかり治ってしまった。

1950年代の中国は、都市の病院も医療人員もきわめて少なかったが、予防を主とし、労働者、農民のために、中医(漢方)と西洋医学を結びつけた衛生事業を実行した。これによって中国は医療・衛生面で面目を一新した。

政府や医療人員の努力で、中国は速やかにコレラやペスト、天然痘などの悪性伝染病を制圧すると同時に、チフス、マラリアなどの伝染を抑えることができた。

また旧中国ではいくつかの風土病が流行った。例えば中国北部で流行った「克山病」は心筋を犯し、「大骨節病」は関節を悪くした。いずれもカシンベック病である。中国南部の各省で流行った住血吸虫病に罹ると、次第に労働と生活の能力を失い、ひどくなると命の危険がある。このほか、甲状腺肥大、フッ素中毒などの風土病もある。

こうした風土病に対して政府は現地の民衆を組織して、さまざまな方法でこれを予防・治療した。例えば1950年代に、住血吸虫病を媒介するカタヤマガイを絶滅するため、風土病地区の民衆は川や溝、田畑のほとりに住むカタヤマガイを取り除いて埋め、住血吸虫病の伝染ルートを切断した。さらに薬で治療し、生活環境を改善したので、住血吸虫病の患者は大幅に減少した。

毛沢東主席は1958年7月1日、『送瘟神』(疫病神を送る)という七言律二首を詠んだ。その中で、昔は「萬戸蕭疏鬼唱歌」(万戸、蕭く疏となりて、鬼、歌をうたう)であった病気の流行地区が、今では「紙船明燭照天焼」(紙船と明き燭、天を照らして焼かん)というよう変わり、疫病神を送り出して健康な日々を迎えた、と表現している。(読み下しは武田泰淳、竹内実著『毛沢東 その詩と人生』による)

 

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