宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907~1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115~1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。 |
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秘められた石経の宝庫─雲居寺 (その二)
11世紀も終わりに近づくにつれ、遼の南京道(現在の北京市)の西南にあった雲居寺の刻経事業も中断の止むなきに至った。遼王室は当時、女真族の北からの侵攻に対処することに忙殺されており、この事業に対する支援も滞りがちになっていた。しかし、正にこの時、禅宗の大徳通利大師(1049~1098年)がこの地にその足跡を印したのである。通利大師と弟子たちが1093年から始めたこの大事業は、雲居寺の歴史におけるもう一つの画期的な活動である。石刻事業のこの新しい活動は、規格の揃った石板の両面に経文を刻すという非常にきちんと組織化されたものであった。それ以前、石板は大型で扱いにくいものであった。遼の道宗は自ら47帙(1帙は10巻)の経文を180枚の大石板に刻す事業を後援している。しかしながら、通利大師は扱いやすい小型の石板を用いることとし、さらに経文を『契丹版大蔵』に基づいて分類されるよう番号を付して配列する方法を採った。この『契丹版大蔵』は、1068年に燕京(北京の遼時代の呼称)のいくつかの寺院で木版から作成された。
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石経山の景観。ここで隋時代にはじめて石刻が行われた。前庭の左側の空き地は南塔のあった場所。右側は1118年に建てられた石幢で、八角形の柱に石経事業について詳しく記されている「続秘蔵石経塔」 |
通利大師の偉業については、弟子たちが1118年に「続秘蔵石経塔」の石幢に刻して残している。この石幢は漢白玉に飛天、楽師、花飾りを彫った美しい八角の型をしている。塔に刻まれた説明文は、通利大師がいつ、どのようにして、この地に至り、刻経が中断され、大部分が未完成になっていることを知り、意を決して事業を再開したことを詳細に記している。通利大師は刻経を始めた隋僧静琬の精神を汲み、事業再開に当たって、静琬の遺骨を収めた記念塔を建立した。同年彼は、戒壇を築き、ここで俗人信徒に戒を授け、その礼金を以って事業続行の経費に当てたのである。何千人もの人々が雲居寺で仏教に帰依したことから通利大師の偉大な人徳が、十分推察できる。二年半におよぶ事業に参画した人々の中には、数百人もの僧侶がおり、学識のある僧が正しい経文を選び、書家や石刻師を選任したようである。事業にたずさわった関係者や寄進主の名も石板に刻み込まれている。
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「続秘蔵石経塔」の基石に彫られた飛天 |
遼金時代に刻まれた1万4278個の石経。1957年南塔跡の地下宮から発掘された |
石幢は、また通利大師の弟子たちが師の逝去の後、事業を再開し、全ての石板を保護するために地下宮に埋蔵した経緯を伝えている。弟子たちはさらに、この秘められた宝庫の上に、八角型の13層の「南塔」を建立した。この塔の基石上の刻文(1117年)には、次のような記載があり、近年の新しい発見に道を拓いた。「此塔から相去ること一歩、地下宮あり。経碑4500個有り」
通利大師たちの事業は、時間との闘いでもあった。静琬法師の時代からすでに仏教のみならず、文明世界は崩壊に直面していると強く信じる風潮があった。12世紀の初めにも社会の安定が損なわれつつある兆候がみられた。僧侶たちは仏教の教義を起こり得べき災難から守らなくてはならないとの使命感を持ったに違いない。事実、遼王朝はその8年後、1125年に滅亡した。
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1117年に建立された「南塔」(出典:関野貞・竹島卓一著『遼金時代ノ建築ト其仏像』、1934年) |
静琬の記念塔(1093年通利大師により建立) |
遼代石幢の仏像 |
幸いなことは、遼に取って代わった金王朝の僧たちもこの事業を受け継ぎ、通利大師の遺業を継続し、完成させようとの一大決心をしたのである。女真族が中国北部を版図に入れた後、燕京一帯の仏教は栄え続けた。雲居寺は再び朝廷の庇護を受け、1123年から1137年の間と1161年から1196年の間の二つの時期に『契丹版大蔵』を含む、全ての経文を石板に刻む事業に取り組み、遂に完成させたのである。この金時代の石経も全て「南塔」の下に埋められた。 現在、唯一生き残った「北塔」はそれほど、際立った存在ではない。何故なら、寺院伽藍のほとんどが、再興されたからであり、また南塔を新しく築くとの計画も進行中である。1999年、全ての石経は保護のために新しい空調の効いた地下宮に安置された。最近、石経の宝庫を防護ガラス越しに見る機会があった。その時、私は遼・金時代を通じて、多くの僧たちが石刻という過酷な作業に耐え、仏教教典を後世に伝えようとした決意に思いを馳せた。事実、これらの石経は、その後いくたの災難を生き延びて来たのである。これこそ中国仏教史上、もっとも特筆すべき物語であろう。
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