宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907~1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115~1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に北京は初めて国都となったのである。新連載では、私が長い時間をかけて探し求めた遼・金遺跡にまつわるエピソードを、写真とともにお届けする。 |
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河北省易県に遼代の遺産を探ねる
河北省の保定市から遼・金時代の文化遺産を連想する人は少ないかもしれないが、保定地区の北部は遼王朝の南京(現在の北京)に属していた。今年4月、私は、北京の南西87キロに位置するこの一帯で、当時の遺跡を探索する機会を得た。
易県(当時の易州)は、10世紀中葉に契丹帝国に併合された。ここは北と西の山岳地帯から流れて来る6つの河の合流点で、風水に優れている地点である。歴史をさらに遡れば、この地は戦国時代の燕の下都であったが、秦の始皇帝に滅ぼされた悲劇の舞台でもある。遼の時代には、数多くの寺院や仏塔が建てられ、それらは易県がかつて文化の中心として重要な位置を有していたことを示している。
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太寧山太寧寺双塔。この2つの塔は、山中の断崖に位置し、灌木の茂みに隠れて、遠方からはほとんど見えない |
太寧寺双塔の小塔。突き出した岩棚の上に建つ、この塔から、晴れた日には清西陵を見ることができる |
『易州志』には、遼の易州の寺院建造のため地元の人々が莫大な寄進を行ったという記載があり、「易県文物所」に保管されている数個の古い石が易県の豊かな過去を証明している。今でも遼の仏塔のいくつかは確かに存在しており、私にとっては興味津々たる探索となった。幸運なことに私は張洪印易県文物所所長(当時)と懇意になり、これまでの3回の訪問の度に、案内をしてもらい貴重な助言を受けることができた。張氏によれば、清朝が1737年に皇帝を祀る西陵を建造し始めたことから、易県に古くから伝わる民話や伝統行事は消滅してしまい、住民の多くも強制的に他の場所に移され、その後に陵を守る満州族が居住するようになった由である。清西陵の北西にある遼時代の太寧寺への道を辿りながら、私は住民たちが今に至るまで満州族の伝統を守っているのを認めることができた。太寧山に続く谷間を抜けて、7キロほど車で走ると、かつての太寧寺(現在は静覚寺)の遺跡を示す旗が目に入った。
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遼代に建てられた「荊軻塔」は八角型13層。荊軻丘に建つ聖塔院塔の唯一の現存物 |
太寧寺双塔の大塔。遼代に建てられた八角型13層の塔のかたわらには、かつて寺院や僧坊が建っていた |
2軒の農家の庭には、見事な彫刻が施された石が保存されており、その中には、大理石造りの水路跡もあった。農家の台所の土間に、明代の黒ずんだ石碑が元のまま置かれていたが、それは太寧寺の修復を記念するためのものであった。碑文を読むと、この寺院が充分な資金に支えられ壮大なものであったことが、よく分かる。
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遼代の塔を代表する装飾。大塔の正面の門の上部アーチに彫られた龍の両側には、2つの小さな塔がある | 四囲の山々を眺めている時、2つの塔が断崖から突き出ているのが、目に入った。私は塔に誘われてさらなる探索に向かったまでは良かったが、それはたいへん危険で長い登山となった。中途から径は傾斜のきつい鉄製のハシゴとなり、さらにその先は、丸い石に足場を穿ったものとなった。もちろん握る手すりも、落下を防ぐ網もない。昔の人は一体、どのように資材を上まで運んだのだろう! しかしこの挑戦は絶壁の2つの塔を近くでしっかりと見る上で、十分な価値のあるものであった。
小さい方の塔は、岩棚の先端近くに建っており、そこからは易県の谷の起伏を一望におさめることができた。塔の3つの層の上は、丸い鉢を伏せた形の仏舎利塔に覆われている。かたわらに建つ大きい塔は、13層の威容が辺りを払っている。八角形の多重の塔は、中国北方の遼・金時代のものと認められ、その基礎部には、龍や仏図像を刻んだ装飾が施されている。
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大塔前で、石板の破片に残された文字から、寺の歴史を読み取ろうとしている著者 | 私はあたりに散乱している石版の破片を見付けた。風化した石刻から断片的な情報を繋ぎ合わせることは容易ではなかったが、それでもいくつかの文字がその場所についてのわずかな情報を提供してくれた。明代の石碑にはここはかつて、双塔庵と呼ばれたことが記されており、またもう1つの年代不明の石碑には、以下のような文字が刻まれていた。「太寧寺—燕山八景の一」そして元来は唐時代の建築であるとの説明があった。張氏によると以前、ここには遼の大安2年(1068年)と記した石碑があり、これにより寺院の再建がその年に行われたことが証明された由。
同じような様式の遼代の塔が、市南部の比較的登りやすい丘の上にある。長い石段を登るだけの苦労で、私は、1103年に建てられた聖塔院塔をこの目で真近に見ることができた。この丘は戦国時代の有名な刺客荊軻の衣鉢を埋めた塚であるとの言い伝えがあり、塔も今では「荊軻塔」という新しい名前で呼ばれている。
訪れる人々は、秦王(後の始皇帝)暗殺を胸に易水を渡っていった荊軻の果たされぬ志を想起する。この塔の本当の来歴が、民間の伝承によってゆがめられようとも、私はその姿に、「遼代易州」の高い文化水準を示すシンボルとして深い感銘を覚える。丘の頂上からは、360度の眺望が開け、易水の支流が数本曲がりくねって流れる様が見晴らせる。この景観は私に易県の恵まれた風水と悠久の歴史を想い起こさせる。(阿南・ヴァージニア・史代=文・写真)
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