農民を豊かにした情報
1990年代、豊かになりたいと望む農民たちは、電話がほしいと痛切に感じていた。
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1990年代の北京・百万荘郵便局の電報電話ホール |
農民たちが豊かになって行く道は、初めは「まず樹を植える」「豚を飼う」だった。しかし植樹して果物を栽培しても、豚やウサギを飼っても、それを市場に運べなければ豊かになれない。そこで「豊かになりたかったら、まず道をつくれ」という民謡が歌われるようになった。
しかし、たとえ道ができても、外部と意思を疎通し、産品を客に紹介し、市場で売らなければ豊かになることはできない。そこで農民たちは電話の設置を渇望するようになった。「豊かになりたければ、まず電話をつけて、それから道をつくれ」という新しい民謡が歌われた。
電話は農民の生活を変え、農村の情報閉塞状況を打ち破った。これによって四川のミカンや新疆のハミウリ、寧夏のクコなどの特産品が市場に出回り、利益をあげられるようになった。
山東省荷沢市の辛集鎮王橋村に住む王本海さんは、1968年、軍に入って安徽省に行ったが、当時は家と連絡するには手紙か電報しかなかった。1979年に復員し、辛集鎮の文化館館長になったが、そのとき、文化館には1台のハンドル式の電話しかなかった。その電話はずっとハンドルを回し続け、交換手につながって、はじめて通話できるというシロモノだった。
1995年、村に最初のダイヤル式の自動電話が設置された。王さんの奥さんが試しに、上海の大学で学んでいる息子に電話をかけてみた。受話器から息子の声が聞こえてくると、奥さんは「まるで夢のよう。すごい」と喜んだ。
その翌年、王さんの家に電話が設置された。当時、村には3軒の家にしか電話がなかったので、王さんの家はまるで「伝達室」(受付)のようになり、子どもが「電話だよ」と村の人たちを呼びに走り回った。現在、村には90%の家に電話がある。電話がない家にはPHSがある。
電話は王橋村の村民に便利さと豊かさをもたらした。荷沢市は牡丹で有名だが、これまでは村の人たちは花の苗を売りに車を運転してあちこち走り回り、運がよければ売れるというやり方だった。いまは、各地の園林局に電話し、花の苗がいるかどうかを尋ねる。これで時間もガソリン代も節約できるようになった。
ついでに言えば、かつて重要な通信手段であった電報は、20年ほど前から次第に市場から消えて行った。十数年前には、多くの若者が腰にポケットベルをつけていた。そんな光景も一時的なことで、今ではポケットベルは携帯にとって替わられた。
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